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アジアとの太いパイプで未来の人材を育成するSAFCA

SAFCAの歩みhistory

財団法人 東南アジア文化友好協会は、アジアの未来の人材の育成を目指しています。

財団法人 東南アジア文化友好協会について

昭和18年10月(1943年)

故加藤亮一先生、日本キリスト教団よりインドネシア・アンボン地区の教会に宣教師として派遣される。21年6月に復員するまでの3年半、現地にて伝道奉仕、神学教育、民生向上に従事。20年4月加藤先生はマラリアと蜂窩繊炎を病む。1ヶ月近く40度以上の高熱が続き、医師が見放す重病に罹った。
食糧事情の悪い中にもかかわらず、アンボン教会の人々の献身的な看病で、絶望の死の床から奇跡的にも病を癒すことができた。
この死の床に差し伸べられた献身的な愛に対する感謝と戦争中に同胞が犯した数々の償いのために、残る生涯をインドネシアやアジアの人々のために捧げることを決意。




当財団の足跡(昭和24年〜)

年号 出来事
昭和24年6月
(1949年)
加藤先生、インドネシアの戦争花嫁の救済活動を開始。
昭和27年3月
(1952年)
加藤先生、巣鴨プリズンに収容されている戦犯者の教誨や釈放運動にあたる。
昭和31年6月
(1956年)
加藤先生、「西部ニューギニア、ボルネオ方面戦没者遺骨収集政府派遣団」に宗教代表として任命、派遣される。
西部ニューギニア・マノクワリで、日本兵を父に持つ戦争混血児の手を引く婦人から「せめてこの子をパパの国で勉強させたい」との衝撃的訴えを聞く。
昭和32年頃より
(1957年)
加藤先生、戦争の償いの具体化として、“戦争で命を与えられた”戦争遺児などを日本に留学させるという構想を暖め高校の先輩、故石井光次郎氏、故石橋正二郎氏、故片山哲元首相、故賀川豊彦牧師、故小崎道雄牧師らの指導を受け、その実現のため教会関係者、南方関係者に働きかけ、準備に奔走。
昭和34年5月
(1959年)
加藤先生、故ラオ博士らインドネシアからの亡命者の世話を始める。
昭和34年6月 加藤先生、東京池袋教会創立10周年記念礼拝で、同教会を「アジアに奉仕する教会」とし、同教会に「アジアキリスト教会館」を建設するという構想を発表。
昭和34年10月 加藤先生、インドネシア内戦に対し、クリスマス一時停戦を求める「賀川豊彦−和平アッピール」を起草。インドネシア、アメリカ、国連その他に送付。反響を呼ぶ。
昭和35年頃より 加藤先生、インドネシア賠償留学生達の世話を開始。
昭和37年2月
(1962年)
故石井光次郎、故片山哲、故小崎道雄、故北村徳太郎、故都田恒太郎の諸先生を特別発起人とし、第一回特別発起人会を開催。昭和40年をめどに「アジアキリスト教会館」を建設すべく運動を開始。
昭和37年3月 東京池袋教会定期総会において「財団法人東南アジア文化友好協会設立申請の件」満場一致で可決。広報誌「アジアの光」を創刊。
昭和37年4月 加藤先生、インドネシアを訪問。ライミナ副首相、ルマンビー大臣ら政府要人と会い、財団設立について説明。インドネシア側の発起人会を組織。

公益財団法人
 東南アジア文化友好協会

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TEL 03(3296)0192