公益財団法人 東南アジア文化友好協会は、アジアの人づくりを目指しています。
財団の発足
昭和38年6月(1963年)
「財団法人東南アジア文化友好協会」公益法人として外務省より許可。
理事長に石井光次郎、副理事長に片山哲、専務理事に加藤亮一が就任。会館建設のため、募金活動に邁進。
年号 | 出来事 |
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昭和38年9月 | 「バリ島災害振興協議会」を3月アグン火山の爆発による大惨事救済のため結成、救援活動を行う。 |
昭和39年2月 (1964年) |
日本プロレス協会が会館建設資金募金のための興行を、不慮の事故死をとげた故力道山の遺志をつぎ、日大講堂で開催。 |
昭和39年8月 | 「財団法人東南アジア文化友好協会」文部省より共管同意。「ベトナム共和国民生安定救援と事業」を外務省より委嘱される。5億4千万円の政府資金の運用、医師団の派遣、医薬品、その他の救援物資を送り込む。 |
昭和39年10月 | 欠乏しているインドネシア語聖書50冊を、インドネシアへの文化賠償金を用いて、日本聖書協会の委託で贈呈。 |
昭和39年12月 | 「ベトナム共和国民生安定救援と事業」完了。外務省から亜東第1532号にて感謝状を受ける |
昭和40年10月 (1965年) |
故藤山一郎、故渥美清、長門裕之氏らの芸能人の方々が会館建設資金のためのチャリティを西武百貨店で開催。 |
昭和40年11月 | 東南アジア学生寮が完成。インドネシアから戦争孤児、ミエ子川崎を入寮第一号として迎える。インドネシア・フィリピン・シンガポール・マレーシア・タイ・香港からの留学生または研修生が常時20名近く在寮。 |
昭和41年8月 (1966年) |
フィリピンの戦争虐殺者の遺児3名を迎える。 |
昭和41年〜42年 | インドネシアやフィリピンなどから戦争混血児、戦争被害者遺児ら続々と入寮。マスコミは彼らの“まぶたの父親探し”や戦争の惨めさを大々的にとりあげる。東南アジア諸国からの「父親探し」「日本留学」を希望する問い合わせは数年間で千通を超える。 |
昭和42年12月 (1967年) |
血債の地シンガポールから「華僑虐殺事件」の遺児2名が入寮。 |
昭和43年3月 (1968年) |
国賓として来日中のインドネシア・スハルト大統領夫人、当財団を訪問。寮生や関係者らを激励。 |
昭和44年3月 (1969年) |
ジャカルタの公邸にスハルト大統領夫妻を加藤先生が訪問、歓談。インドネシア・セラム島のジャングルで生活していた残留日本兵・小松原一市氏(島根県出身)の救出運動を展開。4月、長女のハヤティが入寮。昭和45年6月、小松原一家、27年ぶりに島根に帰郷、その後、日本に永住。 |
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