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アジアとの太いパイプで、未来の人材を育成するSAFCA

SAFCAの歩みhistory

公益財団法人 東南アジア文化友好協会は、アジアの人づくりを目指しています。

昭和49年〜

年号 出来事
昭和49年1月
(1974年)
日本軍の処刑予定者リストに載せられていたインドネシア救世軍指導者の長男を留学生として迎える。
昭和49年3月 長崎県出身の元日本兵遺児、ロメオ浦君(13歳)入寮。日本の中学に編入。以後7年余り在寮し、コンピューターの研修を積み、昭和55年、日イ合弁企業アサハンアルミに就職、帰国。
昭和49年3月 「ボンチアック虐殺事件」の犠牲者の遺児らを南カリマンタン(ボルネオ)のポンチアックから技術研修生として迎える。
昭和49年5月 韓国「朴大統領主催朝餐祈祷会」に加藤先生が招待される。
昭和49年11月 NHKの「特派員報告」は「インドネシア留学生」と題して5年間在寮していたロミーアウイ君の帰国後の活躍を放送。戦争混血児であった彼は「私はインドネシアと日本の架け橋となりたい」と放送中で力強く語る。
昭和50年1月
(1975年)
豊島西ライオンズクラブが招待したスリランカの少女、難病の口腔整形手術を受けるため、約5ヶ月学生寮の寄宿。
昭和50年12月 財団の理念とその活動を綴った「今はつぐないの時」を財団10周年にあたり、加藤先生が聖文舎から出版。同書はインドネシア語、オランダ語、韓国語などに翻訳され、各国で出版されるとともにTV、ラジオ等で紹介される。
昭和51年11月(1976年) フィリピンから6名の女子縫栽研修生を迎える。同国から以後3回にわたり50余名の女子縫栽研修生を迎える。
昭和52年4月
(1977年)
インドネシアの代表的婦人雑誌「ムチアラ」に、加藤先生と当財団の「償いの業」がトップで掲載される。
昭和52年8月 ミクロネシア・ヤップ島から、戦争孤児(女子)をはじめて迎える。
昭和52年11月 「比日友好公園と高山右近モニュメント」をマニラ市プラザ・ディ・ラオに幾多の難関を解決し完成。日本からも60名が参列して盛大な除幕式を挙行。
昭和53年5月
(1978年)
マニラ市婦人美化委員会のカロンチョ女史ら4名の訪問団を招待。
昭和53年12月 「比日友好公園と高山右近モニュメント」につき、外務省から亜東二号第1260号にて感謝状を受ける。
昭和54年6月
(1979年)
インドネシアの婦人雑誌「フェミナー」6月号に10ページの企画記事「パンデター加藤、私のパパを探して下さい」を掲載、当財団の事業を紹介。この記事はインドネシアで大きな反響を呼び、当財団にも同国の戦争混血児から200通を超える手紙が寄せられる。

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