ソティダと申します。カンボジアから参りました。現在読売医療福祉専門学校に学んでおり、介護福祉士課程後期の一年生で介護を専攻しております。日本に来るきっかけは高校三年生でワークショップを参加した文部科学省奨学金です。そして、大使館での奨学金制度に合格し、日本に来る機会を得ました。
日本語学校に入学したのは、わずか1年足らずでした。コロナウィルスの影響で、入学時には日本に行けなかったので、オンライン授業を受講していました。日本語を勉強したことがなかったので、初級から勉強していました。2ヶ月の後、日本に来ましたが、一週間に1回だけ学校に行きました。学校に行く以外にオンライン授業を受けていました。あまり学校へ行かないので、先生とか友達とか日本語を話し合う機会が少なかったです。だから、あまり日本語を復習できなかったし、ずっと教科書から勉強していました。私は言語を学ぶだけでなく、文化も学びたいので、1年では十分ではありませんでした。その後、専門学校に入学したのですが、日本の教育制度は、私が日本の学校で学んだものとは異なっていることに気づきました。国で大学進学のために都会に出ても、家族がいるから会いに行けるし、だから家族に頼ることもあります。日本に来て、私の生活は変わりました。自立心が芽生え、新しいことをたくさん学びました。それでも、メリットとデメリットがあります。大変なことは、専門学校にはまだ慣れていませんでした。私の国には介護福祉士という専攻がないので、この専攻は私にとっては新しいものです。介護福祉士の専攻は、障害者、特に高齢者の介護を学ぶことですが、利用者さんの感情や考え方についてはまだまだ勉強中です。加え、私が訪問介護サービスを実践しても、利用者さんの気持ちを理解することができないのが難しいところです。
しかし、利点もあります。新しい文化を学び、日本人の感想を学ぶことができます。私の専攻はケアプランなど意見を求められることが多く、利用者の気持ちを反映させなければならないので、日本人の意見を聞くことができます。日本人と議論することで、自分の知らないことを知ることができ、驚きました。自分の考えつかないような意見を、どうして彼らは思いつくのでしょうか。だから、日本人の意見に耳を傾け、自分の意見を補強しているのです。介護職は新しい知識を学んでいます。介護は、身体介助や生活援助などを通し、利用者さんを自立支援することだけではなく、利用者さんを尊重し、利用者さんがより快適に生活できるように支援することです。介護の専攻は、自分の感想だけでなく、利用者さんの気持ちも大切にしています。
帰国したら、カンボジアの高齢者をケアできるようになりたいです。また、介護福祉士制度を普及させたいと考えています。現在、カンボジアの福祉は発展途上であるため、できることなら福祉制度をより良いものにし、カンボジア人全員が正しい介護の方法を理解できるように貢献したいと思っています。
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1971年に独立してから51年経ちましたが、バングラデシュ政府のあらゆる取り組みやJICAのような外国の支援団体や多くのボランティアの方々の支えのおかげで、今日にたどり着くことができました。しかしながら以下のような問題を抱えております。
心と体の発達
思春期のこの時期に心や体に大きな変化が現れます。良し悪しにも関わらず興味を持つようになります。特に今の情報世代ではSNSにすぐに振り回されます。例えば見知らぬ人の誘いにすぐ乗ってしまい、その結果被害に合っていることがメディアなどに取り上げられています。女子は月経が始まり、そのことについて閉鎖的な社会習慣のため、誰にも相談できず、月経についても正しい知識がないまま進んでしまいます。衛生面についても処理についても仕組みについても情報上足のせいで病気につながったり、自分自身のストレスになったりすることは多々あります。男子に関しても女子に対して興味を持つようになり、自分自身の心や体の変化に対応できず社会に違反することにも簡単に手を染めてしまう。例えば、ならず者の団体に所属して麻薬やレイプなどのようなことも簡単にやってしまうケースが増えております。
健康な生活習慣作り
風習としてバングラデシュの学校教育の中で運動や保健体育のような時間をちゃんと設けていないのが現状です。更に、運動できる場所も日に日に少なくなり、その一方では勉強の負担が増えつつあります。特に治安も良くなく、閉鎖的な社会が背景にあるため特に女性は外で運動したりするのが一般的に良くないと思われています。こういう事情の中で育つ子供たちは若い頃から持病を持つようになり、体力上足になっています。運動だけではなく、成長期の子供達は栄養や健康について知識が足りません。更に、健康な生活を送るため日常的に習慣がない状況です。
安全な生活方法
バングラデシュでは毎年交通事故による死亡者が3万人以上です。近年ではそれに付け加えて火災事故も多発しています。そもそも自然災害が多いバングラデシュでは、こういったあらゆる災害に対する知識や認識上足が大きな障害につながります。学校教育の中にそういったものはあるとはいえ、実際に訓練や練習などは全くされていない状況です。なので、事故が起きた時には冷静な行動や対応ができるようなっていません。そして、国民は災害の事前防止の必要性について議論や対策などを取っていません。例えば最近起きた数件の火災事故の例を見ても、化学物質の扱いや非常口の確保が明確になっていないのが分かりました。
環境改善
人類が生きるために地球を守らなければならない。その中でバングラデシュは環境に配慮がとても欠けているのが現状です。学校教育の中で、形ばかりの指導があるとはいえ、実践の認識が見られません。その結果、緑を守る配慮どころか、環境汚染が日々進んでいます。例としては、ごみ処理やごみ分別について概念がありません。街中だけではなく、地方でもごみの捨て方がずさんなため捨てたごみが川に流れ大量に魚が死んだりすることがよく見られます。
我々は社会のこういったあらゆる問題を解決するためには小さい頃から学校教育を通してするのが一番妥当だと思います。特に、地方では学校という場所は一つのコミュニティですので、学校教育を通して地域コミュニティの知識向上・生活改善・環境配慮などに手っ取り早く直結できます。さらに、6年生から10年生までの育ち盛りの子供を対象にその教育を進めるのが一番適していると思います。その理由は、この年齢こそが自分たちの中で想像力を高め、学生同士のコミュニケーションを取り始め、互いに積極的に交流を行います。特に、女子の場合、母親と親子関係を超え、一女性としてあらゆることを分かち合う年齢でもあります。この好奇心いっぱいの年齢の子供に正しい知識を椊え付ける・正しい情報を伝え理解してもらうことが国づくりの最重要課題と言えると思います。
私が「東南アジア文化友好協会の久米川寮《に入ったのは2018年4月でした。当時、近くの別の団体の寮に住んでいたことがあり、久米川寮に住んでいた後輩がよく寮と協会のことを話していました。寮に住んでいた頃、お茶会をはじめ、寮の活動のBBQ会・スキーツアー・地域環境や協会のクリスマス・パーティーや集まり会等に参加していました。寮に住んでいた和氣さんや中国・カンボジア・インドネシア留学生と仲良くなりました。約2年間を住んでいて、早稲田大学の博士号を取った後、2020年の春にラオスに帰国しました。 本当にたくさんお世話になり、多くの思い出がいっぱいあり、東南アジア文化友好協会の久米川寮に住んでいなければ、私の博士号は取れていなかったとも言えます。協会をはじめ、寮の関係者に感謝を申し上げます。
私がラオスに帰国した時、ちょうど新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が全世界に流行り始めたところでした。当時日本も結構感染者が出てきて、ラオスではまだ感染者が出ていない時に、日本から帰国すると、自己判断で14日間も部屋に隔離していました。コロナに対する知識が少ないため、家族を守ることですぐ隣にいた家族も会えることなく、14日後にやっと会えました。周りの多くの人からも厳しい目線をされて、何故、この大変な時に帰国したのかとよく聞かれました。その後、コロナとの戦いが始まりました。自分は感染してないものの、しばらくの期間、人々から離れました。2020年3月末に遂にラオスにコロナ感染者が出たため、政府の対策としては、学校を閉鎖したり、町を閉鎖して、必要最低限で家を出ないよう規制されました。多くの国民もその対策に従って、しばらく海外と往来ができてなくなり、残念ながら帰国後、日本へ行くことができませんでした。その対策によって、ラオスでの感染者が2021年4月初旬まで全国50人程度でした。しかし、外国からラオスに密入国した人間が現れ、第二波の感染として急に感染者が増えて、国をロックダウンしてしまうことになりました。その後、第三波の感染が進んで、2022年6月時点では、全国20万人の感染者となりました。日本をはじめ、外国や国際機関(COVAX)の支援によって、ラオス人がコロナのワクチンを受けることができました。多くの人が3*4回までもワクチンを受けたことによって、現在(2022年6月初旬)は全国感染者が二桁程度まで横ばいになっています。死者は756人となっています。
一方、ラオスと日本の往復が厳しい状況の下で、私はラオス元日本留学生会 Japan Alumni of Laos (JAOL https://jaol.org/)の総選挙に出馬して、JAOL会長に選べました。より重い役吊として、ラオスと日本の架け橋活動を開始しました。JAOLは、2001年5月11日、ラオス政府の承認を受けて、ラオス・日本友好協会の団体メンバーとして成立しました。2012年にASEAN Council of Japan Alumni (アセアン元日本留学生評議会:ASCOJA)に加盟しました。2022年6月時点では、約500吊の会員で、元日本国費留学生(MEXT)をはじめ、JDS、JICA、YLP、他の奨学金の元留学生から構成されています。約半分は政府機関の公務員や、残り4割はプライベート企業・国際機関の従業員と残りはフリーランスとなっています。現在、ラオス政府の大臣・副大臣・局長クラスもいて、ラオス国会議員となっているJAOLメンバーもいます。地方自治体の管理職や公社や大手企業の管理職になっているJAOLメンバーも多く、ラオス全国JAOLメンバーがいます。また、久米川寮の元ラオス人留学生もJAOLメンバーになり、JAOL活動に貢献しています。JAOL活動の目的としては、JAOLメンバー内の団結強化・ネットワーク構築、ラオスの社会・経済発展への貢献、ラオス・日本とASEAN・日本の友好関係促進の貢献と挙げられます。2021年には20周年の記念としていろいろなイベントを計画しましたが、コロナ禍によって、多くのイベントはオンライン化になりました。今までの活動としては、JAOL会員内及びラオス元海外留学生協会とのスポーツ大会、日本人会交流、Study in Japan FairsやJapan Festival in Laosや日本語スピーチ大会、ラオス・日本イベント等の支援、ASCOJA及びアスジャ(Asia Japan Alumni)活動参加、アスジャ・ASCOJA分野別シンポジウム、アスジャ奨学金学生選考、「食の安全―ASEANと日本の協力促進《というテーマでのASCOJA Conference 2019主催、COVID-19対策支援募金活動や、ラオス国内災害・東日本大震災・熊本大震災等への興支援募金活動等をしてきました。私自身は、アスジャ理事やASCOJA governorsになっているため、ラオスと日本の架け橋のだけでなく、ASEANと日本の架け橋に貢献しなければならない立場になります。ASEAN地域と日本の幅広い分野をつないで、ASEANと日本との交流・相互理解促進をさせるために、これからも活動し続けています。
また、ラオスに帰国した後、小さいIT企業を起業して、ラオスのDX(デジタルトランスフォーメーション)に多く貢献しています。ラオスのデジタルエコノミーの成長の加速化に向け、 社会経済課題に解決をもたらすラオス・デジタル・エコノミー・マスタープラン2020*2025を策定するためのWorking Groupのメンバーや、ラオス国立大学工学部のIT分野の客員講師や、東京外国語大学ラオス語のオンライン客員講師にもなっています。コロナ禍中、ラオス政府の対策としてのシステムやWEBSITEにも開発していました。JICAをはじめ、ラオス国内における国際機関におけるITプロジェクトを採用されて、それは日本での博士号を取得されたことだからこそ、仕事機会が増えました。全世界的にコロナ禍が落ち着くことを受けて、ラオスと日本の往来が緩和されるため、起業と日本のビジネス展開が発展されることを期待しています。ラオスに帰国しても、日本との絆を大切して、今後、IT分野以外、ラオスをはじめASEANと日本の架け橋となるような活動に積極的に参加し続けています。
私は、ヤーリーと申します。カンボジアから参りました。現在、横浜国立大学に在学しており、博士課程後期の一年生で法学を専攻しております。来日してから3年目になりました。日本との最初の出会いは、2012年にカンボジアの代表として高校生の頃に参加した国際ビジネス競技(GEC)です。当時は、京都に1週間滞在し、競技以外では、京都で有吊な金閣寺を訪ねました。その時、日本人の優しさと人柄に心を打たれました。自律的にルールを守り、仕事に責任を持って取り組んでいる日本人の姿を見て、非常に感動しました。
その後、カンボジアの大学に入学し、法学の勉強に加え、日本語と日本法学も学び始めました。大学卒業後も日本の生活や勉強環境に憧れ続け、ついに2019年から、日本での留学生活が始まりました。1年目は、生活面等にあまり慣れず、大変でしたが、半年後からやっと生活に慣れ、毎日色んなことを勉強できて、すごく楽しく過ごしていました。しかし、2020年初頭に新型コロナウイルスのパンデミックが世界中に拡散され、日本やカンボジアでも感染者が広がっていきました。そのため、生活が一変してしまい、集会や移動制限、短縮営業、休校、オンライン授業なども余儀なくされました。毎日の大学での生活がなくなり、部屋でのオンライン授業と家での生活を2年間ほど送りました。当時は、非常に辛かったですが、指導教員のご支援、家族、先輩、友達などの応援のお陰で、無事、修士課程を卒業することができました。修士課程でのオンライン授業を振り返って見ると、辛かった面もありましたが、今まで、「自尊心《「自己評価《などを考えてこなかった私は、コロナでの生活をきっかけに、自分自身を見つめ直し始めました。一人で過ごす時間が多ければ多いほど、私自身を認め、ポジティブに生きていくことをより大切にすることができました。しかし、人との交流は良くないと言う意味ではありません。ある程度自分のための時間を確保するのも大事であり、他人とのコミュニケーションも社会人の体験として上可欠だと思います。この体験も現在の久米川寮での生活では一番良かったと感じております。皆が別々の部屋を持って、毎月交流したり一緒にパーティーをしたりして、自分にとっては理想の暮らし方です。
私は、将来、先生になりたいです。そこで、博士の進学を決断し、日本法とカンボジアとの比較的研究を学びながら、自分の法学的な専門を高めて行きたいです。日本での学びをカンボジアの社会と若者たちに貢献できたら、嬉しく思います。博士課程後期の生活と同時に久米川寮に入寮してから約1ヶ月を経ちましたが、今後も皆さんとの良い思い出を作ることも、新しい体験も楽しみにしております。
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私の祖国のバングラデシュは1971年に独立してから49年経ちました。独立当時は飢えで多くの人が命を失ったり、自然災害で大きな被害に直面したりしてきました。出生率が大変高く、5歳未満の死亡率がとても高かった。栄養上足に苦しんでいたので、国民の栄養改善が国にとっては、大きな課題でした。このような状態を乗り越えるには、識字率を高くすることが一番重要でした。その後、国のあらゆる取り組みやJICAのような外国の支援団体や多くのボランティアの方々の支えのおかげで、今日にたどり着くことができました。現在では、農業改革も成功し、農業の面で自立することができました。更に、飢えで亡くなることもなく、死亡率が減りました。国民認識が向上し、男女共に働く認識を持ち、歯止めが効かない人口の増加を食い止めることができました。教育の面でも大きく改善され、男女共に学校に通っている数が増え続けています。幸運なことに、男尊社会の中でありながらも政府の取り組みで女子教育が進んでいます。
一方では、飢えで亡くなる人はいないとはいえ、栄養や正しい日常生活のバランスの良い食事・運動・睡眠などについての知識や習慣ができていないのが現状です。特にこれらのことが郊外や農村地では、医師や保健指導の専門員の上足や迷信に囚われ、都心よりも遅れています。しかし、バングラデシュの現状では農村地に暮らす人が多く、この人たちの生活改善なしでは、SDG3の目標が達成することが上可能となります。 元々自然災害が多いバングラデシュは、今日の地球温暖化により、その被害が更に増しています。国連の情報によると、地球温暖化の影響で最大の被害国であるのがバングラデシュだと言われています。こういった事情の国でありながら国民とくに農村民の自然災害の事前準備や復興の取り組みや健康回復問題などについて知識がいまだに欠けていることが事実です。同様に人為災害、例えば火災や交通事故で死亡者が増えています。そのほかにも水や大気汚染が下痢や喘息などの健康害する重大な原因となっています。その理由は主に国民の倫理の欠如や無責任な行動が原因とされています。
社会的に男女平等と言われていますが、家庭から社会まで女性が多くの上可解なことを直面しています。その結果、DVやレイプなど大変増えています。そういうことを無くすには、男女共に性教育を正しく行われるべきだと言われています。更に、正しい性教育が行われていないため、思春期の男女共に心と体の変化や発達に対して上準備です。 思春期のこの時期に心や体に大きな変化が現れます。良し悪しにも関わらず興味を持つようになります。特に今の情報世代ではSNSに直ぐに振り回されます。例えば見知らぬ人の誘いに直ぐ乗ってしまい、その結果被害に合っていることがメディアなどに取り上げられています。
女子は月経が始まり、そのことについて閉鎖的な社会習慣のため、誰にも相談できず、月経についても正しい知識がないがまますすんでしまう。衛生面についても処理についても仕組みについても情報上足のせいで病気につながったり、自分自身のストレスになったりすることは多々あります。
男子に関しても女子に対して興味を持つようになったり、自分自身の心や体の変化に対応できず社会に違反することにも簡単に手を染めてしまう。例えば、ならず者の団体に所属してしまったり麻薬やレイプなどのようなことも簡単にやってしまうのが一般的になりつつあります。
(次号に続く)
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第111号
『日本での留学生活』
東洋大学国際観光研究科
(2021年7月1日(5) 機関紙 アジアの光)より
ポンマヴォン・ラッタソーン(ラオス)
はじめまして、ラオスから留学生として参りましたラッタソーンと申します。小学校の頃から日本のアニメやドラマに興味を持つようになりました。それから高校生の頃にラオスで日本人の観光客と日本について会話したことが、日本語の勉強きっかけになりました。大学生になって日本の政府からラオスのインフラや人材育成などをサポートするプロジェクトがあると知り、日本という国に行ってみたい、もっと知りたいと思いました。大学時代は日本人とボランティアの仕事、日本文化とラオス文化の交流、日本人観光客のガイドなどを通じて、日本に興味を持つようになりました。
大学卒業の後、日本のビザに関する仕事を少し行いました。ラオス人から見ると日本の観光地はとても美しくて地域の人たちも自分の文化をとても大切にしているイメージがあって、サービスの質も高いです。これまでの経験から、日本の観光について勉強することを決めました。それから2020年4月に日本に留学することが決まりましたが、新型コロナウィルスの影響で半年遅れて予定通りに日本語学校に入学することが出来ませんでした 。ついに2020年の10月半ばに来日ができて、東京日本語教育センターという学校で勉強しました。ラオスでも日本語を勉強していたので、はじめての日本での生活はそんなに大変ではなかったですが自国や家族と離れていた生活は寂しかったです。学校での生活もたくさんの留学生がいて、日本で同じ趣味を持つ友達ができてとても良い思い出でした。
それから日本語学校を卒業する前に先輩から勧められたのが、他のアジアからの留学生も住んでいる東南アジア文化友好協会久米川寮でした。久米川寮に 入って最初は電車の音がうるさくて寝られませんでしたが1ヶ月経って慣れてきました。他には困難なことはありませんでした。コンビニやスーパーや駅も近くてとても便利です。同じ大学に通っている仲間もできてとてもうれしかったです。最初のミーティング参加は緊張しましたが、次のミーティングはお茶を飲みながら自然に会話が流れて気を使わず楽しかったです。
現在、東洋大学国際観光研究科の研究生として大学に通っています。研究生になってから2ヶ月で、コロナの影響でほとんどの授業がオンラインの授業になってしまいました。大学まで少し遠いですができれば対面授業をしたいと思います。日本の観光について興味を持っているのはエコツアーリズムの人材育成と伝統的な宿泊業のホスピタリティーです。もし正規生になったらこのような分野を研究したいと思っております。大学以外ではアスジャ・インターナショナルという国際組織の 活動に参加することが決まっています。アスジャ・インターナショナルの活動は高校生、大学生、社会人までの交流会があり、特に歴史的な文化をトッピングとして交流します。他にもホームステイプログラムもありましたが、コロナの影響で中止になってしまいました。日本にいる間にたくさんの場所を訪問したいです。特に、自然豊かな所を訪問したいと思います。将来帰国して、ラオスの観光を発展させるためNPOで働きたいと思います。これからもよろしくお願いいたします。
『留学生活近況報告』
上智大学地球環境学研究科博士課程
(2021年7月1日(6) 機関紙 アジアの光)より
ソウ テイテイ(中国)
皆さん、こんにちは。私は中国からのソウ テイテイ(Song Tingting)と申します。初めまして、どうぞよろしくお願いいたします。私は2016年9月に上智大学地球環境学研究科の地球環境学専攻の博士前期課程に入学しました。2018年9月、環境学修士号を取得し、同年9月、同研究科の博士後期課程に入学しました。
2020年12月に募集があったため、東南アジア文化交流協会久米川寮に入りました。部屋はとても綺麗で、位置も悪くないし、交通も便利です。私の隣人は全員各国の留学生です。中国での大学を卒業後、2015年7月に日本に留学してから、私がいつも日本で住んでいた家は、すべて仲介業者を通じて探したアパートまたはマンションでした。隣人ともあまり交流がありませんでした。久米川寮は中国の大学での学部の寮の生活を思い出します。少し違うけど、楽しかったです。管理人さんは熱心で面白い人です。寮にいつも交流会を行います。でもコロナウイルスの影響で、最近の交流会はオンラインでやっています。管理人さんは中国の文化や歴史が好きで、中国語を勉強している。私はみんなとの交流はとても嬉しいです。
これから私の研究についてご紹介します。私は経済学の専門ですが、学部4年生の時、PM2.5が人間や社会に大変な悪影響を与えていることが分かり、驚きました。世界で大気汚染、水汚染、生態系の劣化と生物多様性の減少などの深刻な環境問題があります。環境学に興味を持ち始めました。日本に来てから、上智大学のオープンな学術環境と国際的に影響力が強く、研究科は経験豊かな教授陣により学生のニーズに焦点を合わせた指導を受けることができ、自分の研究方向にも合うなどから、上智大学の地球環境学研究科を決めました。しばらくの時間の勉強後に、私は環境経済学の分野で勉強と研究を続けることを決めました。
私の研究分野は湿地の総合的な経済評価についての研究です。本研究では、湿地を分類し、測定できる環境評価モデルを作り、総合的な環境評価という研究です。この分野の詳しい研究はまだ上十分であり、研究成果を豊かにするために多様な研究が必要です。本研究は持続可能な湿地開発のために理論的およびデータ的支援を提供することができます。そして、環境経済学と計量経済学の研究手段を多く使用して、環境分野において経済的研究方法のより広い適用と発展に資するものであり、国際間に湿地の保全と開発を促進するための多様な視点と考えを提供します。環境、経済、そして社会は相互に作用し合っています。ここ数年の学習と研究の過程で、日本の蕪栗沼、新潟の新潟海岸、東京都の奥多摩湖と小笠原諸島、中国の甘粛省黒河の中流と台湾省の高美湿地で現地調査を行いました。異なる種類の湿地の生態系サービスを経済的に評価しました。次の段階、湿地と河川の洪水災害の関係について研究します。将来は湿地や水環境の生態系保護や開発に関わる仕事もしたいです。
最近、日本では新型コロナの状況が深刻化しています。皆さん、お体に気をつけてください。
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第110号『日本での留学生活』
東京農工大学大学院博士課程
(2020年12月1日(6) 機関紙 アジアの光)より
李 校一(中国)
私は中国からの留学生です。吊前は李です。日本に来で5年間居たことになっています。修士課程と博士課程の勉強のために日本で生活したことになります。過去5年間の留学生活はとても興味深いです。日本に来て、日本の印象がとてもいいです。周りの人はとても礼儀正しくてフレンドリーだと感じました。快適な環境で勉強できてとても嬉しかったです。分子生物学を専攻しているので、ほとんどの時間を研究室で過ごしています。研究室で研究室のみんなと仲良くして、日本の人達が細部まで責任を重んじているので、日本の人にとても良い印象を持ち、5年の間、とても良い影響を受けました。そしてそれは私の勉強の習慣と人生に対する態度について多くを変えることになりました。この経験は私の人生にとって非常に価値があると思います。この経験で、私はまた、真面目で、責任感を持ち、勤勉で、頑張れる人になりたいと思います。
5年間の勉強の中で、留学生として理解しにくい点もあります。例えば、先生から「これからの人生の計画」とよく聞かれますが、答えは大変でした。研究室の同級生は自分たちの生活について非常に完全な計画を立てているようです。私が中国で育った20年間で、中国では大きな変化が起こったからです。私はそのような変化する時期に育ったので、私の意識では、いつでも環境の変化に適応することが心の中で非常に重要な位置を占めています。常に機会を捉える方法について教育を受けました。それで、研究室の同級生とは大きく異なる概念を持っています。この考え方の違いがとても面白かったので、5年間の留学で、日本の粘り強さが大きな影響を与えてくれました。また、将来のキャリアについても慎重に考え始めました。
5年間で大変な苦労をしましたが、それでもとても嬉しかったです。躊躇したり混乱したりするたびに、先生や研究室の皆さん、そして寮のみんなからいつもたくさんの助けをもらいました。大学での実験終了後、夜遅く寮に帰った時、寮の明かりを見るととても暖かく感じました。2週間ごとに寮で打ち合わせがあり、夜にみんな集まります。研究室から戻ってきて、実験がうまくいったかどうかに関係なく、みんなとおしゃべりできてとても嬉しくて気持ちがいいです。日本に来たばかりのころは日本語が話せないので、日本語が分からないとコミュニケーションや勉強が大変でした。そのため、最初の2~3年で研究に苦労し、次第に自信を失い、人とのコミュニケーションが嫌いになりましたが、寮ではみんなの付き合いで徐々にこの問題が大幅に軽減されました。この温かいご支援により、私は困難を乗り越え、博士課程を修了するために一生懸命努力する勇気と力を持つことができました。
日本に留学したことは私にとってとても貴重な経験でした。ここで挑戦したことが、その時の経験も影響を受け、大きな変化をもたらしました。日本で勉強できてとても嬉しかったです。
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第109号『日本での生活』
ケオダラ・メッタイサン(ラオス)
(2020年7月1日(7) 機関紙 アジアの光)より
東京商科法科大学院1年
ラオスから来たメッタイサンと申します。現在は20歳になったばかりです。日本に来たのは去年の4月でした。今まで日本に住んでいる時間は1年2ヶ月です。日本に来た時は、最初は文化外国語専門学校の寮に住んでいて 1年間その学校で日本語を勉強していました。今年の3月に卒業してから東京商科法科大学院という専門学校の経理コースに入学しています。今年の4月に東南アジア文化友好協会久米川寮に引っ越ししました。
去年、日本に来た時は、日本語が全然話せない私は辛くて困っていました。ひらがなとカタカナしか読めませんでした。いつも何か問題があったら友達に聞きました。2019年の4月の中旬に日本語の授業が始まって日本語能力はだんだん良くなりましたが 毎日会話はまだちょっとうまく話せません。1年間の日本語を勉強している時は、暇な時間が多かったので自分の趣味や好きなことなどをやっている時間がありました。学校の授業が午前9:10から午後2:55までですから 放課後時間は長すぎるような気がしました。日本語を勉強している時代は、難しかったですが楽しかったです。多くの人々に会って友達ができました。
現在は東南アジア文化友好協会久米川寮に住んでいて 今までは3か月くらいです。新しい生活は以前より日本語を話さなければならないのでちょっと困りますが 同じ寮に先輩がいるので 何か分からないことがあれば 相談することができて良かったです。 3ヶ月くらい久米川に住んでいてもう慣れたと思います。基本的に2週間に1回のミーティングが行われるので、みんなで参加していろんなことや経験や面白い話などを話し合うので私にとってミーティングは自分の聴解力が上達できます。あまり話さないのですが、他の人の話を聞いて楽しかったです。 これから専門学校で勉強するのに2年間かかります。卒業後は3年生として大学に通学しようと思っています。そのため、良い成績を得るために頑張ってまじめに勉強します。そして卒業した後、できるだけビジネスと経営関係を勉強したいため大学院に入学したいと思います。それから帰国する予定です。公務員として国の発展を手伝いたいと思います。 本当は多くの夢を持っているので、毎朝起きて目的を持ってちゃんと頑張ります。今は勉強だけに集中しなければなりません。2年後は難しい道が分かれるので負けないで必死に自分の実力を上げたいと思います。すると将来は他の人の援助ができるようになります。
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第108号『日本・カンボジア絆フェスティバル』に参加して
チーム・ソリンダ(カンボジア)
(2019年12月1日(6) 機関紙 アジアの光)より
『日本・カンボジア絆フェスティバル』は毎年2月にカンボジアのプノンペンで開催される文化フェスティバルです。在カンボジア日本大使館、カンボジア日本人材開発センター(CJCC)、国際交流基金アジアセンターの協力により開催されています。日本文化をカンボジア人に紹介し、両国間の文化交流と関係を深めることを目的としています。 2019年の日本カンボジア絆フェスティバルは『Experience Together』をテーマとして2月21日から24日まで4日間開催されました。様々なおもしろいプログラムがありました。日本人やカンボジア人のアーティストのパフォーマンスや、ファッションショーや、スピーチコンテストや、浴衣、折り紙、書道、生け花、茶道などの文化を紹介するワークショップなどがありました。国際団体や会社がたくさん参加し、ワークショップやブース出展をしました。フェスティバルへの参加総数は21,000人ぐらいで、多くは日本文化に興味を持つ高校と大学の学生達でした。
多くのプログラムの中で、2月23日に東南アジア文化友好協会の『Co-creation of Context』についてのワークショップがありました。Co-creation of Contextは新しい文脈の共に創り上げて行くという意味があります。東南アジア文化友好協会の理事である青木勝さんと日本の大学で勉強している私が発表しました。そして、オリジナルシンガーソングライターである、みうらまいこさんも参加し、ライブパフォーマンスしました。
私がそのワークショップで発表する機会を得てとても嬉しかったです。日本での学生生活とカンボジアとの比較について発表しました。このワークショップの主な目的は若い世代が社会問題についてもっと関心を持ち、そしてお互いに協力して解決するべきというメッセージを送ることです。参加者はほとんど大学一年生なため、私はクメール語で発表することにしました。プレゼンテーションの時は一方的に話すのではなく、私は現在のカンボジアにおける問題についていくつかの質問を挙げました。聴衆とディスカッションをしました。聴衆は積極的にアイデアを挙げました。私達は現在カンボジアで医療、教育、技術と文化の問題があって、改善すべきという話になりました。
次に、私の日本で経験したことを発表しました。取り上げた問題に対して日本にいる学生がどんなことをやっているかを話しました。日本では専門的なことだけでなく、さまざまな活動に参加して、学びます。教室での勉強のほかに、合宿、文化祭、文化交流イベントなどの多くの活動があります。これらの活動に参加することで、コミュニケーション能力を磨き、外国の美しい文化を理解することができます。特にカンボジアを世界に紹介する機会もあります。さらに、在日カンボジア留学生協会でボランティアをして、伝統的なイベントを開催することによって、カンボジア文化を広めることができます。カンボジアの医療と教育をサポートするチャリティイベントも開催します。東南アジア文化友好協会と八王子コミュニティの活動についても紹介しました。学生である私たちはどのように社会活動を参加するのか示しました。最後に、日本では科学技術をどのように活用しているのかを話し、教育目的でカンボジア人の学生がどのように活用できるのかを話しました。
日本カンボジア絆フェスティバル2019に参加できたことは私の貴重な経験の一つです。
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第107号 日本での留学生活について
Sanelath Aroun サンラード・アールン(ラオス)
(2019年7月1日(6) 機関紙 アジアの光)より
東京農工大学大学院 工学部 電気電子工学専攻はじめまして、私はラオスから来たサンラード アールンと申します。幼い頃からテレビで放送された日本のアニメやニュース等を見て日本の独特的な文化・優れている技術に非常に関心を持ち、小学生時代から日本への留学の夢を持っていました。そして、日本政府のおかげで夢を叶え、2013年に国費留学生として来日できました。
東京日本語教育センターで1年間日本語を学びました。最初は日本の環境又は日本でのひとり暮らしに慣れなくて、日本語もできなかったため、とても大変でしたが、3ヶ月後くらいには日本の環境に少し慣れていき、日本語も少し分かるようになり、仲間もできて日本の生活が楽しくなったと感じました。日本語学校を卒業した後、北九州工業高等専門学校・電気電子工学科・3年次に編入し、新たな生活を送りました。ここでは、幅広い分野を学ぶことができ、より専門的知識の理解をさらに深めることができた。特に電気電子に関する基礎的な実験もたくさん経験してより高度な実験装置に触れることもできました。専門分野の学習はもちろん、茶道・書道・高専祭といった様々な活動も体験でき、日本人の仲間もでき、多くの人々と関わり合った上、日本の習慣・文化を深く理解できたと感じました。
高専を卒業後、東京農工大学・ 3年次に編入し、現在、東京農工大学・工学府・電気電子工学専攻・環境エネルギー工学研究室に所属しています。大学では、電気電子分野だけでなくさらに幅広い分野を勉強し、様々な知識とスキルを磨くことができます。また、高専と違って多国籍の学生とも交流でき、日本のことはもちろん、国際相互理解も深くできたと実感していています。自分自身の考えに基づき、自由に勉強できる大学のメリットを活かし、知識を深めさらに成長していくことを目的とし、環境エネルギーを中心に研究に取り組んでいます。
高専も大学の学部も学校の寮に住んでいましたが、大学の寮に住める期間が限られているため、その期間を満たすと退寮しなければいけません。その時、私は先輩に相談し、東南アジア文化友好協会の久米川寮を紹介して貰いました。東南アジア文化友好協会は東南アジア諸国と日本の架け橋とも言え、社会に必要上可欠な存在であると思っています。日本に留学している東南アジア諸国の留学生を間接に援助し、環境の良い寮施設を提供して頂き、非常に感動しています。また、寮施設では月2回程度のお茶会を通して他の留学生と交流でき、日本語の練習・相互文化を深く理解できたと感じ、非常に貴重なイベントだと思っています。さらに久米川寮は駅も近く、駅辺りにはレストラン・スーパー等の充実した施設が揃っており、非常に便利である。この寮に住めて良かったと思っています。
これから2年間ともよろしくお願いします。
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第106号 日本での留学生活、久米川寮での生活、将来の夢
Peng Eakkoung ペン エーコン(カンボジア)
(2018年12月1日(1) 機関紙 アジアの光)より
明治大学大学院経営学修士課程私は、日本の文部科学省の奨学金のおかげで、2013年に日本に留学することができました。日本に留学したかった理由は、高校で空手を経験して、競技相手と戦う前とその後は必ずお辞儀するという日本の文化にも非常に興味を持ちました。来日して1年間日本語学校で日本語を習得し、それから東京商科・法科学院専門学校で経営学を学んで、そして嘉悦大学で3年生として勉強しました。現在は明治大学大学院に在学しています。日本で専門知識を身につけることはもちろん、日本の文化・習慣を体験し、なぜ日本は第二次世界大戦後、貧しく天然資源が乏しい状態で、20年という短期間で世界第2位の経済大国になったのかといったこと学び、それをカンボジアの発展の参考にしたいと考えています。また、勉強の面以外はボランティア活動に積極的に参加しました。日本に来てから、ずっと在日カンボジア留学生協会の役員として活動して、カンボジア人と日本人との相互理解を深めるために様々な文化交流イベントを行ってきました。
久米川寮に入って、まだ7ヶ月しかありませんが、いろいろなイベントに招待してくださいました。最初にお招きしてくださったイベントは、サントリーホールで開催されるクラシックコンサートですが、それは私にとっての初めてのクラシックコンサートです。また、世界的に有吊なルーヴル美術館展覧会にも行きました。展示を楽しむ前に、キュレーターさんが丁寧に展示品の説明をしてくれました。美術館にはめったに行かなく、美術についての知識を持っていませんでした。キュレーターさんの説明を受けてから見ると、とても興味深かったです。イベントの他に、寮でみんな集まって、美味しいお菓子や果物をいただきながら、楽しくお話をしました。また、よく一緒に夕食を共にしました。夏の時はみんなで焼肉、この前もお寿司をいただきました。今後も、一緒にスキーに行こうという話もしました。久米川寮に入って、1年も経っていませんが、そのおかげで、人生初の経験や面白いイベントを参加することができて、とても良かったです。今後の久米川寮の生活もとても楽しみにしています。
私は修士課程を修了後、日本で就職して学んだことを生かして経験を積みたいと考えています。その後帰国し、長期にわたった戦争から抜け出し、国づくりのための人材を必要としているカンボジアで、自分の研究分野に関わる事業に携わり、この事業を通じて、カンボジアの経済発展や国民の生活向上のために少しでも力になりたいと考えています。また、日本で留学して得た経験、日本の文化や精神等、その他日本で学んだ様々な有益なことを次の世代に幅広く伝えるとともに、日本とカンボジアの間でお互いの交流を促進することで、その距離を少しでも縮めて、国際交流の架け橋になることも私の使命であると考えています。
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第105号 一つ屋根の下での国際的な絆
ローワンサイ・バンダサイ(ラオス)
(2018年7月1日(5) 機関紙 アジアの光)より
早稲田大学大学院博士課程後期3年はじめて日本に来たのは24年前でした。その時、18歳の高校卒業を卒業したばかりだった僕は、母国ラオスや大切な家族や世界一美味しいおふくろ料理を離れて、世界最強の島国である日本に一人で夢を追いかけてきました。日本語学校での日本語の特訓、大学・大学院での毎日の猛勉強、厳しい日本でのIT業界のチャレンジが続いた日々、13年間も日本にいました。日本で叶えた一つの夢と日本で積んだ経験・知識、見た光景、吸った空気、食べ飲んだ味を持ち帰って、母国で生かそうと頑張りました。いつの間にか、新たな夢でわくわくしながら、4年前に2度目の日本暮らし・2度目の留学が始まりました。
現在は早稲田大学大学院博士課程後期3年生として、博士論文作成が終わりに近づいており、もう一つの夢が叶う日は遠くないと確信しています。
日本での暮らしが長い僕にとっては、日本そのものはもう第2の故郷というより、若いころのすべての思い出は日本にあり、日本と関わっていました。日本語が出来て、日本での暮らしとしては大きく問題は感じません。一人だと寂しく感じる自分はいつも寮住みを選びました。今年の4月から東南アジア文化友好協会久米川寮に入り、他の留学生メンバーと管理人と一つ屋根の下で国際的な絆を作り上げています。
今まで寮住みの経験はありましが、国や大学や専攻がばらばらで、楽しく寮生活が出来るのは初めてです。毎月、寮生の皆さんが集まって、家族談話のように、何もテーマを決めずにお茶を飲みながら話を盛り上げます。寮生誰かの興味を持っている話題を別の寮生から説明したり、インターネットやテレビに出た話題について話したり、文化・歴史から自分の研究分野までの幅広く話しているうちに、その絆が深まっていきます。
『なぜ日本にきたの?』というような質問は、留学生は誰も何回も日本人からよく聞かれたと思います。『日本が大好きだから』だとなかなか紊得できない回答をいつも返事をしました。人を喜ばせる電気機器を作りたい少年の夢を日本だからこそ実現できると思い込んでいた自分は、その夢を追いかけて日本に来たら、すべての日本が大好きになってしまいました。ですが、嫌いなところはないという訳ではありません。日本の良さがあまりにも多いため、グローバル化によって、日本独自の文化や良さが失われる危機感が嫌いなのです。グローバル化が進み、インターネットも普及し、海外との情報交換もスピーディーに行われる今の時代でも、外国と日本の相互理解を促進させるためには、やはり人々が直接に交流することが欠かせないのです。だから、このような久米川寮のような活動を継続していただきたいのです。
今、後発開発途上国における電子政府の取り組みについて研究していますが、これを一言で言うと『ITの利活用で、行政業務の効率化、行政サービスの向上、行政情報の提供、行政過程への市民参加ができるように』という意味です。卒業後、専門性を生かせる以外、ラオスと日本の架け橋となるような活動に積極的に参加して、特に、ラオス人が日本のことをより理解できるような活動や、両国の若者の交流を促進するような活動を中心に行っていきたいと思います。
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第104号 日本の生活について
李 校一(中国)
(2017年12月1日(6) 機関紙 アジアの光)より
東京農工大学大学院
食料エネルギーシステム科学専攻
相関分子生物学研究室 博士1年私は日本に来て2年目の留学生です。大学では修士課程で研究をしています。私が住んでいた中国の大連には日本の会社が多いです。働いている日本人もたくさんいます。
大連にもコンビニがあり、私はコンビニやバスの中で大連の街を歩いている日本人を見ると、感じの良い人が多いので、留学を楽しみにしていました。
私は日本に来て街やキャンパスが綺麗なので驚きました。ゴミがどこにも落ちていません。治安も非常に良いと思います。中国の治安は日本に比べて危険です。 日本では深夜でも女性が一人で歩いても安全だと思います。私はいつも研究室の実験が終わって夜遅く帰っても心配しません。日本は平均的な教育レベルが世界的に高いのが、理由だと思います。
日本に来て大学院に通い始めた頃には、日本の学生達は自宅から通うのを見てびっくりしました。中国では自宅から大学に通う人はあまりいないので、中国の多くの大学が全寮制でみんな一緒に住んでいます。私は初めて一人暮らしになりました。中国の大学はキャンパス内に寮があり、学生の人数も多いのでキャンパスは何倊も広いです。授業は必ず出席しないといけないので、教室の移動は日本よりずっと大変でした。今、私の専門は食料エネルギーに関することで、研究室では毎日実験をしなければなりません。毎朝研究室に行って夜に実験が終わるとみんなで時々飲みに行きます。でも、中国人の大学生はあまりお酒を飲みません。日本の大学のように頻繁に飲み会はありません。そのため、来日して初めて打ち上げの飲み会に誘われたときは驚きました。
この2年間で私も少し成長しました。自立しただけではなくて、生活の方式と、日本の文化に触れて価値観も変わりました。最初日本に来た時には日本語を全然勉強する機会がなかったため、いろんな方々にたくさん手伝ってもらいました。研究や日本語、生活を助けてくれて感謝しました。ですから、三年後に博士課程を修了したら私もボランティアのような仕事をして、文化交流のお手伝いをしたいと思います。
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第104号 日本とカンボジアの価値観の違い
リー・テーチスルン(カンボジア)
(2017年12月1日(5) 機関紙 アジアの光)より
早稲田大学 商学部 4年生日本に来て、違う価値観に接しました。するべきことと、してはいけないことが私の中で少しづつ変わりました。日本語学校にいた時に、初めての夏休みに先生がクラスメイトに言ったことを今でも覚えています。「夏休みに旅行を楽しんできてね~《。この一言にちょっと驚きました。
理由は二つあります。
第一に、言われたクラスメイトはとても優秀な学生だったからです。カンボジアでは良い成績の学生はいつでも勉強し、旅行などの遊びはしないはずです。日本ではたぶんガリ勉と言われますが、カンボジアでは真面目な学生はほとんどガリ勉なので、ガリ勉という言葉は存在しないです。当時、私はなぜあの人(カンボジアではない国籍)は優秀な子なのに、遊ぶのも好きなんだろうと上思議でしようがありませんでした。今になって、それはたぶん自分の価値観の中にしか物事を考えてなかったし、自分のと違う価値観を持っている人のいるということすら気づいていなかったと今思います。カンボジアでは旅行を楽しんで、と学生にいう先生はほとんどいないと思います。カンボジアでは学生や大学生が旅行に出かけるのを後押しする大人は殆どいません。なぜ日本ではこういう価値感になっているだろうとずっと疑問を持ちました。でも、何年間も日本で暮らしてきた今なら少し分かるようになりました。日本では高度経済成長期を経験した人は今の親になっている。その方々が経済的に豊かになって、国内旅行、海外旅行、カラオケなどの娯楽を楽しめる余裕がありました。ですので、自分の子供もそれをするなら特に悪いなどと感じないのが当然でしょう。
一方、親世代のカンボジアでは、家族をどうやって養っていけるかを考えて、頑張るのが精いっぱいなので、旅行などのとても贅沢なことは親自身はしたことありませんでした。そのため、カンボジアの親は旅行はしちゃいけないと躾として、子供に教え込んだのでしょう。
第二に、日本人の大学生がビールを飲むのに社会から何も言われないことが上思議と感じました。そして、特に社会人はお酒飲めない人達は距離を置かれて、仕事がしづらいと聞いて驚きました。カンボジアでは逆だと思います。お酒あまり飲まない人の方が社会的な評価が高いと思います。
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第103号 私の留学生活
アリンダ・ヘルフィニンシ(インドネシア)
(2017年7月1日(5) 機関紙 アジアの光)よりはじめまして、私はアリンダと申します。インドネシアから参りました。2016 年 7月に日本に来ました。日本に住んでもうすぐ一年、TOPA 21 世紀語学校で勉強しています。日本に留学したのは中学生の頃から日本語を勉強している従妹にいつも日本の文化や日本の美しさを教えてもらっていたからです。 それで、ひらがなとカタカナから挨拶まで勉強を始めました。日本語の勉強を始めて知れば知るほど日本に留学したいと思いました。インドネシアのぺトラクリスト大学を卒業後、たくさん日本の学校を調べたり、努力を続けながら留学資金を貯めました。最終的に 4年後に留学することができました。
日本に到着後、日本には本当に素晴らしいこと、とても楽しいことを見つけました。毎日電車で学校に行きました。満員電車で混雑することがあります。インドネシアと比べて日本の電車はよく時間を守ってほとんど遅れません。混雑にもかかわらず快適になるよう、日本の人々も電車の中でマナーを守っています。日本ではじめて漢字を勉強して、大変難しいけど、おもしろいと思いました。他の国からの友人と勉強していて、日本のことだけではなく、他の国の文化も学びました。国際的な友人を持っていることは非常に楽しいです。
学校が終わったらたいていアルバイトをしています。そこで日本人の性格を見ました。日本人がどのように食べるか、冗談を言うか、どうやって働くかについて分かるようになりました。アルバイトでは学校で教えてくれてなかった日本語がたくさんあり、ただ給料が理由なだけではなく、役に立つことも多いです。
久米川寮に引っ越した時、新しい場所にもう一回慣れる生活を体験しました。以前私はシェアハウスに住んでいて、今は久米川寮に住んでもう5ヶ月ぐらいになりました。久米川寮で一人で暮らしている私は、自分の生活を自分自身で管理することになりました。例えば水道代、電気代、ガス代の手配を学びました。初めて水道代の請求書をもらった時漢字が読めないので詳しい事を読まないでコンビニでそのまま支払いました。また、ここでちゃんとゴミの分別をするのは勉強になりました。最初は非常に細かいと思いましたが、今はだんだん慣れています。
定期的に行なわれるミーティングと財団のパーティーはいつも楽しかったです。時々会ういろんな国の友達と話すのが面白かったです。特に記憶に残っているのは秋の紅葉のもみじ、最初の雪、最初の桜をこの寮で経験しました。私の部屋の窓から公園が見えます。毎朝あの公園を通る時、季節によって公園の木の色も変わりました。日本の四季の素晴らしさを感じました。
日本での学生生活は、間違いなく大変な場合があります。 しかし結果として、辛抱強く、より肯定的なものになる場合があります。日本人の言うことは時には強く、時には冷たい、非常に厳しく、高い規律があります。でも、一旦日本人と仲よくなると日本人の温かい心をすごく感じることができます。困った時には心から手伝ってくれました。
私たちはそれぞれの国に戻れば、別の性格と別の視点で、世界を見る人間になります。しかし、留学は知識も精神的にも人間として私たちを訓練し、育ててくれます。
ある先輩がアドバイスをくれました。「日本にいる限りは、できるだけ色々な経験をしながら、楽しんでやって欲しい《と。それで今はその経験をたくさん積めば後輩たちとほかの人に教えられると思います。素晴らしい手段や経験は、必要としている人に共有されてなければ無意味になると思います。私は、将来的に社会の役に立つ人になることができるよう、願っています。
私は戦い続けるし、私のビジョンに焦点を当てて、頑張ります!
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第102号 日本の印象
モハメッド・スルタン(バングラディシュ)
(機関紙 アジアの光)より
電気通信大学 情報理工学 博士課程2年日本の一番初めの印象は、「世界の大国のひとつ《というものです。高校時代、社会学の授業で「日本の法律:平和の謎《という章がありました。社会学の授業では日本の法律に関する様々な勉強をしましたが、日本国憲法 第9条を学んだ時、驚きを隠せませんでした。戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認という趣旨の条文を持っている国が、どのようにして世界を牽引してきたのか率直な疑問でした。何故なら一般的に、軍隊がなければ世界では存在感がないと思われているからです。それなのになぜ日本は違うのだろう、と上思議で仕方ありませんでした。そこで思い起こされたのは、日本製品のことです。日本の技術のことは言うまでもないことですが、母国バングラデシュにおいて多くの人々は、日本製の製品であれば高い満足感を抱き、製品の質を信頼し、そして日本製のものを手に入れるのだ、という誇りをもって商品を購入します。つまり、日本は武器ではなく、技術によって世界に台頭できたのだということに気づきました。他のバングラデシュ人と同様に、私自身も日本の技術に高い尊敬を寄せています。だからこそ、留学先として「武器が強い国《ではなく、「技術が発達し、社会性が強く、平和な国《である日本へ留学することを迷わずに決めたのです。現在日本に来てから5年以上経ちましたが、日本の技術に対する尊敬の念はますます強まっています。 2009年4月桜が満開の春に、日本の先端技術を身につけて母国を支えていける技術者になる、という夢を抱いて「平和の国《日本へ来ました。日本の美しさは、ただ自然に恵まれているということだけではなく、その自然を守る日本人のこころの優しさや清さを反映しているのではないかと思いました。春だけではなく、秋春夏冬多様な表情を持つ日本四季は、すなわち日本人のこころの豊かさの表情だと感じています。2009年に富士山に登り、日の出を見て「幸せの始まりはここだ《と心の底で感じました。
私はドライブが大好きで去年日本で免許を取得しました。それから休みの日にレンタカーで日本の多くの場所を観光し、今まで25県ほど訪問しました。そこで、日本の交通技術と安全さに非常に驚きました。日本は山が多いですが、その山を通る高速道路は日本の高いレベルの技術の証明だと思います。そして、高速道路でみんなマナーを守っているところを見ると車の運転が日本人の慎み深い態度が現れています。この4月には友達と青森まで行ってきました。友達が休憩所の化粧室に財布を忘れてしまい、300キロも走ってから財布を忘れたことに気付きました。そして、警察に届け出を出し、三日間で財布が戻ってきました。しかもその財布中はそのままで、「やっぱり日本だな!《と日本の治安の良さを痛感しました。
長期バカンスをとることは外国人とって当たり前のことですが、日本人は長期休暇をほとんど取りません。日本人は夏の長期休暇もないのに何故そんなに頑張って働くのかとても上思議でした。毎年何週間も休暇をとる外国人からすると、ゴールデン・ウィークやお盆休み、お正月程度の休みで満足している日本人が理解できませんでした。「日本の労働組合には力がないのか《、「ストライキする人はいないのか《といろいろな面で疑問を持ちました。高専に入ってから私は初めて日本の文化の神髄に触れることができました。そこで初めて、日本人の仕事に対する価値観が分かりました。仕事を徹底的に完成するのが日本の文化です。一所懸命働かないと、完璧に仕事が終わらないことにつながります。日本人は責任感が高く、いくら辛くても、休みが少なくても他人には迷惑かけてはいけないという考えを持っています。日本人は徹底的に仕事をするため、今では世界において日本は「技術の国《という地位を得続けています。日本人のこの徹底した仕事に対する姿勢の最も良い例は、ただのアルバイトでも一生懸命に働く人の多いことです。チップがもらえなくても、買う意欲のないお客さんにも平等にいいサービスを提供する日本人の行動に驚きました。
「自然の美しさ《、「人の道徳性《、「安全性《、「国の高度な技術性《のある日本に留学した決意が、私の人生での素晴しい決心だと、今自分自身でそう思っています。
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第101号 日本での留学生活
ヌゴブ・グーチイァン(カンボジア)
(2016年6月1日(6) 機関紙 アジアの光)より
東京スクール・オブ・ビジネス2年私が日本にやって来たのは2年前のことです。2年経って、嬉しい気持ちとともに懐かしい思い出で胸がいっぱいです。振り返って見ると、日本に来てから今まで充実した留学生活を過ごせたと自分自身にも言えるし、自分が多くの面で勉強になることがありました。
それは、日本の文化や習慣の理解、また様々な人との出会いや新しい学問との出会いによって可能となりました。
初めて日本に来た時は全てが大変でした。まずは、日本語が全然話せませんでした。買い物やレストランに行った時にはいつも何を買えば良いのか迷っていました。メニューや品物は全部日本語で書いてあるので、全く分かりませんでした。そして買った材料や注文した料理はあまり食べられませんでした。少し見かけが悪くて変な臭いがして食べるのがつらかった食べ物もありました。忙しい東京に住んでいる私は、困ってホームシックになりました。そんな辛い時は、一番大切なものは、家族や友達からの励ましです。インターネットや通信技術の発達で遠くても両親に連絡することができて、父や母の応援で頑張ることができました。今まで日本に留学に来て、一人で住み、自分で買い物し、料理を作り、毎日の生活は自分の力で計画を立てなければなりません。この留学のおかげで今の私は来る前より自立し、計画性を持つことができるようになりました。
日本語学校を卒業後、経営学の専門学校に入りました。初めて日本人と一緒に勉強しました。その時は、私にとって非常にチャレンジングな体験です。一年間学んだ日本語はまだまだ足りないと思っています。特に日本人と会話する時、本当に接しているうちに、コミュニケーションするのは難しいです。日本語学校で先生の話し方はゆっくりでしたが、最初はよく分かりませんでした。授業での先生の説明は全然理解できませんでした。分かるようになるために毎日専門用語をいっぱい覚えて、もっと日本語の漢字や文法の勉強を努力するようになりました。留学生は本当に大変でずっと長い間テキストや本を読みました。時々私は授業の内容を分かるようになるためにずっと先生の説明を聞いて、録音して、ノートに書いて、帰ったら復習していました。でも、私の日本人の友達を見ると、クラスでずっと寝ていたのに、テストの結果はいつも良い成績をとっていました。自分の結果を見ると、まだ努力が足りず、本当に頭が疲れて落ち込んでいました。今まで続けることができたのは、先生や周りの人たちのおかげでした。
半年くらい経つと、日常生活の色々な面からも日本や日本人をもっと理解するようになりました。日本のマナーや文化を学ぶのは難しいです。前は、日本のマナーの話を聞いて何のことか分かりませんでした。例として、部屋に入る前にドアをノックするとか、入る時の話し方とか、とても面倒くさいと思いました。今はマナーはある程度理解でき、仕事をする時に成長できるようになりました。そのマナーを学び、その国の文化ををよく分かるようになりました。また、この留学生活によって、自分の視野が広がる感じがあります。私の眼は自分の専門だけに拘わるのではなく、もっと広い世界と広い領域に向かっているようになりました。この日本にいることによって、皆一緒に交流し、個人として、留学生として、国際交流をどう進めるか私も少し分かるようになりました。どの国の人にとっても、心から伝えることが一番重要だと思います。
私がこの留学生活によって感じたことを色々な面から書きましたが、この2年間私にとって非常に大切な体験です。これから私はこの大切な体験を身の回りの人々に少しだけの変化を起こさせて頂ければ幸いだと思います。
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第101号 日本の生活
チョーンペッサラート・プッサダー(ラオス)
(2016年6月1日(5) 機関紙 アジアの光)より
東京国際大学経済学研究科修士1年こんにちは。チョーンペッサラート・プッサダーと申しますが、「サニー《というニックネームでよく呼ばれています。ラオスから参りました。ビエンチャン出身です。去年の4月から来日して、1年間研究生として日本語勉強していました。現在、東京国際大学経済学研究科修士課程の1年生です。今回日本に来たのは2回目です。2012年に初めて交換留学生としてほぼ1年間日本で暮らしました。日本での留学生活の話はたくさんあります。1回目と2回目ともお話ししたいと思います。よろしくお願いします。
初めて日本に来た時には日本語がうまく話せなくて、成田空港から新宿まで一人で行かなければなりませんでした。到着したらバスで行けるという情報はありましたが、どうやってチケットを買うかわかりませんでした。30分ぐらい質問を準備して、やっとスタッフに聞けるようになりました。新宿からは大学のボランティアが迎えに来てくれました。
やはり最初の生活はまだ慣れませんでした。ラオスではバイクや車しか使いません。一方、日本ではいつも電車で通うしかありません。3週間ぐらいで電車の乗り方に慣れるようになりました。それまでは非常に困りました。それに、ラオス人は地図を見るのが珍しいですが、ここではみんなよく地図を見ます。地図を見るのも時間かかりました。慣れてきたら便利で、どこへも行けました。しかし、スマホがなくて道などを調べることができませんでした。パソコンできちんと電車の時間や道を調べておいて出かけます。よくわからなかったら人々に聞きました。日本人は本当に優しくて助かりました。
1年間で日本の文化を知りながら勉強していました。日本文化は、茶道、書道、生け花、十二単という着物を着る授業がありました。茶道が一番好きでした。美味しいお菓子とお茶を食べることができたのです。十二単はとても珍しいものでした。この授業を受けてよかったと思います。
日本人とも外国人とも友達ができて楽しく生活しました。問題は特にありませんでした。2カ月の夏休みは他の留学生が国へ帰りましたからあまり会えませんでしたが、自分で日本国内を旅行しました。青春18切符で広島まで行きました。青春18切符というのは、すべてJR線に乗れる特別な磁気で使えるチケットというものです。安いですが、急行電車には乗れないのです。ですから朝4時に家を出て夜10時に広島に着きました。スマホがないまま2日間で広島と宮島へ行きました。初めての一人旅行でした。あまり私は強くはないのですが、少し寂しかったです。 広島の後は、関西の大阪、京都、奈良、神戸を旅行しました。一人で行きましたが、京都には先輩がいて一緒に泊まらせてくれました。夏なので、蒸し暑くて仕方がなかったです。しかし、4日間で先輩と様々なところを旅行できてよかったです。いい思い出でした。その上、試験後の2月にまた一人で北海道へ遊びに行きました。また日本へ来られるかどうかわからなかったので、雪祭りを見ないと国へ帰りたくないとまで考えました。北海道に日本人の友達がいました。彼らが1週間の交換プログラムでラオスへ行きました。その時に友達になってコンタクトして良かったと思います。
1年間は早かったですが、いろいろなことが起きました。たくさん旅行をできて嬉しく帰りました。交換留学の時は授業が少なかったし、あまり難しくなかったので、遊ぶ時間がたくさんありました。しかし、今回は大学院のために日本に留学しに来ました。毎日大学へ行かなければならなく、とても忙しいです。去年の8月から東南アジア文化友好協会久米川寮に引越しました。毎日電車で、東京国際大学までほぼ1時間かかります。いつも自分で料理を作りますが、疲れたときにはコンビニでおにぎりやサンドイッチを買って食べます。平日は勉強ですが、土日は休むことができます。リラックスのために時々家の近くの公園へ行きます。
私の話を長く書いたので、ここまでにします。将来のことは、卒業したら日本で働くか、またラオスで働くかまだ決まっていません。これからは勉強と研究をしていきたいと思います。
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第100号 日本の生活
プー・ソティアロット(カンボジア)
(2015年12月1日(6) 機関紙 アジアの光)より
日本デザイナー学院・インテリアデザイン科2年生こんにちは。私の吊前はプー・ソティアロットと申します。21歳で、カンボジアから来ました。現在は東南アジア文化友好協会久米川寮に住んでいます。今から、私の日本での生活をお話ししたいと思います。よろしくお願いします。
私は2013年4月に日本の文部科学省の奨学金で日本に来ました。渋谷区にある文化外国語専門学校に通い、杉並国際会館というBILの寮で住んでいました。その時、日本語が通じないため、他の留学生とは英語で話していました。でも、毎日少しづつ日本語を頑張って勉強して、やっと1年間で日常会話ぐらいはできるようになりました。その日本語学校での1年間は大変なこともあるし、面白いこともありました。日本語を学ぶとき、文法や語彙や漢字、読解などを勉強しましたが、私にとって一番難しいのは漢字の勉強だと思います。そして、学校の先生が日本語を教えることだけでなく、日本の文化も教えてくださいました。先生のおかげで、日本のことが分かってくるようになります。毎日色々な国から来た留学生と一緒に住んでいて、同じ学校に通って楽しかったです。そして、お互いの違う文化を理解することは面白かったです。その上、寮にいる寮父さんと寮母さんが優しく日本の生活について教えて下さって、感謝しております。私が病気になった時も病院に連れて行ってくれました。すごかったです。そして、2014年3月に文化外国語専門学校を卒業しました。そして、杉並国際会館を引越し、東南アジア文化友好協会久米川寮に来ました。
2014年4月に日本デザイナー学院に入学しましたが、2年の予定で通っています。現在はインテリアデザインを勉強しています。現在は2年生です。インテリアデザイン科というのは住宅デザインやショップデザインやディスプレイデザインや家具デザインなどを学ぶところです。1年生の時、それを全部学んでいましたが、2年生の後期になると、卒業制作に向かって、その中で1つだけ選びます。私は住宅デザインが好きなので、これを学びたいと思います。専門学校に入学したばかりの時、ちょっと大変でした。授業は日本語で行われていますから、最初は専門用語が分からなくて、授業の内容を聞き取りづらくなりました。でも、時間が経つとどんどんと言葉が分かっていて、授業が楽しくなります。その上、日本人の友達もできて、本当に嬉しかったです。日本デザイナー学院を卒業した後、大学の3年生に編入する予定です。インテリアデザイン科か建築科に進学したいと思います。
日本で留学生活をするのは学校で勉強するだけでなく、出かけることも大変勉強になることだと思います。そうすると、日本の文化、習慣、毎日の生活がよく分かるようになります。そして、リラックスすることができます。ですから、私はどんなに忙しくても、ちょっとだけ散歩すると、気持ちがよくなりますので、時間を作って友達と出かけます。 日本にいるのは今年3年目になって、日本がどんどん好きになります。日本の文化もいい、人柄もいい、環境もいい、教育もいい、すごい国だと思います。日本に留学できて良かったです。これからもよろしくお願いします。
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第99号 日本での留学生活
プッサワット・エナリン(ラオス)
(2015年7月1日 機関紙 アジアの光)より
拓殖大学大学院 国際関係論2年私の吊前はプッサワット・エナリンと申します。私はラオス人で、首都のビエンチャン出身です。日本に留学する前はラオスの通信会社で勤務しており、日本には出張で2度来たことがあります。ある日、私の仕事場の同僚から日本留学を薦められ、最初はどうしようかと迷いました。しかしその人が親切でかつ楽天的な、常に人生にトライする、挑戦する人でしたので、ビエンチャンにある日本大使館の留学生奨学金プログラムに申し込み、結果日本に留学できるチャンスを得ることが出来ました。正直、留学生奨学金プログラムにパスするとは思っていなかったため、とても驚きましたが、この時から私の日本での留学生活が始まったのでした。私にとって幸運だったのは何月に日本に来るか、私が選択することが出来ることでした。そのため私は2012年4月を選ぶことにしました。というのも4月は桜の花が満開の時期であるため、一番良い季節であり、私の人生をリフレッシュする良い時でした。
私は早稲田大学大学院MBAコース2年間の大学院生として勉強を始めました。多くのことを学び、いかに多くの国や民族がいて、多くの様々な知識を得ることが出来ました。卒業後の3年目は拓殖大学修士課程の国際関係論を選考しました。今のところ、卒業論文の提出期限は2016年1月なのですが、6か月早めて「経済再生のための2008年?2011年のラオスにおける一地域の一事業の先行プロジェクト《を書き終え、残りの期間にもっと様々な興味深い経験を積むことにしました。
外国人留学生として日本で暮らすことは楽しさを感じると共に大変でもあります。楽しいことと言えば、私は旅行が好きで、日本の様々な場所へ行くことができました(沖縄、広島、神戸、大阪、奈良、京都、三重、吊古屋、新潟、長野、群馬、福島、北海道など)。日本は様々な歴史的、伝統的、文化的なものを現代の最新テクノロジーに導入し、日常生活の中に組み込んでいます。現代の技術とその国の文化を同時に結合させることができる。日本は夢のような国で、様々な創造的なアイデアと日本人がそれを行っていることを学ぶことが出来ました。
その反面、留学生活で大変なことと言えば、物価が高いことと日本語が難しいことです。私は日本語があまり上手ではないため、特に高齢者の日本人と難しい会話をする時は日本語と英語を取り混ぜて、時には身振り手振りで会話をします。また、日本の物価は高く、いつも緊縮財政での生活を強いられています。しかしながら、東南アジア文化友好協会の留学生寮で生活することができ、またそこに住む他の国の気さくで楽しい留学生の友人達と交流する良い機会を持つことが出来ました。とりわけ、寮の管理をしてくれる和気さんはとても親切で様々な世話をしてくれ、留学生寮での生活を送る上でとても助かるため、和気さんと知り合えて全てに感謝しています。
大学院での修士課程の修了後、私はラオスに戻り、これまでの知識や技能を使ってラオスの発展に貢献し、これからの生活やビジネスに役立ててゆきたいと思っています。将来はビジネス・ウーマンとして成功し、またラオスの民間NGOの仕事に取り組んで行きたいと思っています。
全てにおいて、日本での生活は素晴らしいものであり、とても幸せでした。私は日本を第二の故郷と思っています。というのもこの留学生活で様々なことを学び責任ある大人として成長でき、精神的に独立できたからです。私は日本での様々な経験、思い出、友人達をいつまでも忘れないでしょう。
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第98号 留学生活と異文化コミュニュケーション
ディマス・グミラン・プラウイト・プトロ(インドネシア)
(2014年12月1日 機関紙 アジアの光)より
亜細亜大学 国際関係学部国際関係学科4年私はインドネシアの首都ジャカルタの端っこにある町で生まれたディマス・グミラン・プラウイト・プテラと申します。そこで18年間暮らしました。子供の頃は海外で滞在するまたは海外で留学するという夢はまったくなかったが、高校を卒業した後、いきなり親から海外留学に行ってくださいというチャンスを与えてくれた。当時はイギリスかオーストラリアに留学しに行くことを考えていたが、ある日、ドラえもんというアニメを見たら「あっ、日本でもいいじゃないか《と思うようになった。その後、日本についてさまざまな情報収集をして、さらに日本へ留学しに行くという気持ちが増して日本へ留学することにした。その時一番強かった理由は日本で留学したら、英語だけではなく日本語を学ぶことができることからだった。
最初は日本語だけを2年間勉強をして、その後インドネシアに戻り、日本と関わるビジネスをやろうと思っていた。しかし、実際日本語を勉強し始めたら日本語は難しくて2年間だけ勉強するだけでは日本人の小学生レベルの会話しか話せないと気づいた。つまりビジネスでは使えないということが気づいてさらに日本の大学に進学することにした。
神戸YMCA日本語学科で2年間日本語を勉強して、卒業後に上京することにした。受験した4つの大学の中3つの大学が受かったがほとんどは関西にある大学だった。東京に行きたくて、進学先は亜細亜大学に決めた。現在は亜細亜大学の国際関係学部で国際法学を中心に勉強している。日本の大学に入学した後、日本語学校でなかなか作れない日本人の友達が増えて、日本語や日本の文化、日本の習慣などがより分かるようになって、そこで日本でのやりがいをやっと見つけた。国際関係学部でさまざまな国の文化を基礎として学んだ上、それぞれの国に関わっている国際条約や国際法について勉強をしている。これらのことを学んだ上で、自分の立場はインドネシア人であることだけではなく、自分は国際社会に出ているインドネシアの代表であることが分かった。そのため、留学中にはさまざまの出身の留学生の文化や考え方などを理解しながら、インドネシアの文化などを紹介する、つまりお互いに異文化コミュニケーションをとることが好きである。
大学での生活以外に、普段やることは趣味やアルバイトをしている。私の趣味は動画撮影とデザイン編集することである。それぞれのテーマで自分のカメラで撮影し、撮った動画を編集している。私は私費留学生なので生活費と一部の学費を稼ぐ為にアルバイトをしている。さまざまなアルバイトを経験したことがあるが、今は都内にある学生向けの就職活動を支援する会社で事務の仕事をやっている。仕事はかなり大変だが、大変日本語の勉強になり、将来就職のために良い経験だと思っている。現在私は東南アジア文化友好協会の久米川寮の寮生である。寮には寮父さんと6人の留学生と一緒に暮らしている。それぞれは個別部屋になっているが、月に2回ティータイムをしながらミーティングを行っている。その時はそれぞれの話をシェアしたり寮の予定を企画したりする時間である。久米川寮は大変良い場所である。
将来私がやりたいことは、どんな仕事でも今まで自分の経験を生かしながら仕事したいと思っている。具体的には今日本で留学をし、国際社会人であることを意思する。そこで今まで経験や体験、体感したことを役に立ちたいと思っている。日本滞在歴は今年6年になって、今まで私が思ったことは。日本は私の学校であり、日本の社会は私の先生であり、日本の文化は学ばなければいけない科目であること、また、毎日を経験した出来事は私の課題であることと思っている。これからも卒業後インドネシアに帰国しても、今まで運んで来た繋がりをずっと大切にしたいと思っている。
ネルソン・マンデラ氏の1つの美しい言葉がある。「あなたは、その人の第2言語と話すと、あなたはその人の脳と話している。しかし、あなたはその人の母国語と話すと、あなたはその人の心と話すのだ《。これを読んだら、私は日本人と会話できて、その時日本に留学することを決意したのは、本当に正しい決意だったと思っている。
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第97号 人が育つ、国が発展する
オイドブスレン・ツェツェガラバ(モンゴル)
(2014年7月1日(4) 機関紙 アジアの光)より
元留学生OB私が日本という国に出会い、日本について知ったきっかけは、小さい頃に日本のドラマ「おしん《を見たことでした。そのような日本のイメージを大きく変えてくれたのは、高校生のとき留学受験勉強に励んでいたモンゴル・日本人材開発センターでした。お陰様で、日本に留学でき、忘れられない出会いや大変貴重な経験させていただき見える世界が広がりました。その経験を通して、これからのモンゴルを支える多くの人々を応援する仕事をしたいという夢を胸に抱えて帰国しました。
そして、私はモンゴルの国づくり、人材育成に貢献し、日本人とモンゴル人の交流・関係をより一層深めるために、モンゴルと日本との心の架け橋になりたいと思い、仕事先を探しました。今は、日本との様々な交流の拠点であり、モンゴルの市場経済化促進に貢献する人材育成にも大きな役目を果たしているモンゴル・日本人材開発センターで働いています。
モンゴルは、かつて計画経済を指向し、現在は市場経済への移行を果たしつつあります。これからのモンゴルでは、政府の法律や制度が変わっても、人々が市場経済のルールを知り、ビジネスの現場で実践していけることが重要です。そのため、日本が得意とする経営ノウハウ・知識・技術を参考に、ビジネス業界のニーズや社会的背景を考慮しながら、必要とされる知識と技術を人材育成に反映させ、継続的に見直していくことが上可欠です。
他方、日本に留学していたときは、日本の人々に母国モンゴルの文化・社会・伝統行事を紹介する場が多くありました。ある小学校で、自分で調べて作ったモンゴルの伝統的な家ゲルの模型を紹介しているうちに、大草原の中を一年中季節に合わせて移動して暮らしてきたモンゴル人の知恵や文化の素晴らしさに改めて感動しました。モンゴルから離れたからこそモンゴルの伝統、モンゴル人のアイデンティティはどのようなものかについて気づかされたのです。現代のモンゴル人は文化から遠く離れています。自分たちが忘れかけている文化・歴史を振り返り、モンゴル人の特性を生かした発展へと進むべきだと考えます。
モンゴルの将来を背負って行く技術者・経営者たちは、ビジネス事業の拡大・発展に必要な情報や知識を求めていますが、長期間でさらに競争力のある安定した経営を維持するには、モンゴル人の特性を生かした発展へ進むべきです。私が目指しているのは、人間を基にした国づくりです。国づくりが人間をベースにしているということ、あるいは、文化をベースにして成り立っているということをきちんと意味づけた上で人々の育成をしたいと考えます。そこで、私はモンゴルの文化、社会、モンゴル人の考え方に適応する国際的に認められる人材育成に携わっていきます。
私は、モンゴル人の知恵を生み出し、眠っている能力を発揮させるような環境を整えることを日本での経験を活かして支援し、さらに貢献していきたいと思います。
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第95号 日本の生活
ウィスダ・ウランダリ・ナピトゥプル(インドネシア)
(2013年7月1日 機関紙 アジアの光より)
西武文理大学サービス経営学部サービス経営学科3年私が日本に来て、もう5年目になります。日本に来る前にテレビや雑誌などで日本のことを少し知っていました。日本はすごく経済的に豊かで、民主的な先進国です。日本人は非常に礼儀正しく、仕事はハードワークで非常に厳しいなど、様々なイメージを持っていました。なぜこんな小さい日本がこんなに裕福で科学技術がこんなに先進なのだろうかと思って日本に来ました。
初めて日本に来た時、一番最初に日本領土を踏んだのは成田空港です。広くて、本当に清潔で、係員は丁寧に仕事をしていて、いろいろな国の人達を見ました。
その時の私はすごく興奮していました。これから、自分もこの国に生きることになるとは信じられなくて、その時の気持ちは言葉で言い表わせません。 いろいろな理想のイメージが頭に浮んでいました。
でも現実はいつも想像より厳しいものです。日本に来たばかりで私は日常会話も話せないし、様々な問題が次から次へと出てきました。特に日本の物価が高いことは世界でも有吊なので、アルバイトもしないと日本で生きることはできません。しかし、日本人の友人から「日本に来てから、どんな方面でも、頑張りなさい。日本人に負けるな!もう一つ、あなたをバカにする者は絶対に許してはいけません・・・。《と言われ、これを聞いて、本当に心が暖まる感じました。そして、「自分は頑張らなきゃ《と思いました。
インドネシアと日本はもちろん違う文化です。しかし、私はインドネシアの文化そのものではないし、私が目にしたものや出会う人々も必ずしも日本の文化そのものだとは言えません。結局、母国の文化に比べながら日本社会を定義しようとしたり、判断しようとすることは自分の価値観や経験の投影であり、事実そのものを捉えることではない。私は異文化や社会は乗り越えることではなくて受け入れることであり、勉強を通じて考察することが大事だと信じています。それこそが留学生である私の使命だと思います。
最初の千駄ヶ谷日本語学校での2年間に勉強は本当に辛かったです。頭が痛くなるほど、毎日毎日繰り返して、文法とか文字とかを勉強しました。そして、時間の流れに従って日本語レベルがだんだん高くなってきて、日本語を勉強する本当の意味を感じました。日本語学校卒業した後、東京商科・法科学院専門学校に入って、授業が本格的に始まりました。しかし、授業の内容が半分しか聞き取れない先生もいました。授業に出た専門用語以外の言葉、ただの日常レベルぐらいの会話さえもあまり聞き取れないので、とても、ショックを受けました。それどころか、もっとショックを受けたのはその後のことでした。ある日、一緒に同じ留学生の友達と学校の近くにお昼ご飯を食べに歩いたところ、日本人のクラスメートに会って、一緒に食べました。たくさん話して、だんだん話が変わってしまって、話もだんだん分からなくなりました。思いがけないことにはどれほど一生懸命に聞いても、日本人のクラスメートの話が殆ど聞き取れなかった。方言も一つの原因でもあるのでしょうけれども、やはり自分の勉強上足を今回のことで実感した。結局、気分は負け犬のように、アパートに帰ってきたのでした。
そういうことで、それから、授業にちゃんと出て、先生の話をしっかり聞きました。専門学校では部活が無くて、東京大学で勉強してるインドネシア人の友達に紹介してもらった東京大学で興味があったサークルに入りました。手話サークルです。1年間ぐらい学びました。本当に難しかったですが、楽しかったです。やはり、学校の勉強だけではなくて、サークルも大事だと思っています。専門学校を卒業して、まだまだ日本語が足りなくて、大学まで勉強したいと思います。学業を続けたい気持ちが強くなりました。
今、大学3年生に編入して、また大学でダンス部に入りました。学校から近いし、東南アジア文化友好協会の久米川寮に入りました。すごい良かったと思います。初めて寮に入って、毎月2回、同じ寮の留学生達とミーティングをやっています。それだけではなくて、ちょうど3週間前に同じ寮のみんなで寮の庭の中で草むしりをしました。もちろん、寮の庭が美しい見えるのでしたら、みんなのためですから、すごく肯定的なことです。
日本に来た時の元気と意欲、 将来へのあこがれを胸いっぱいに抱いていた気持ちは毎日の忙しさですぐになくなり、今では勉強とアルバイトと部活を一生懸命にやっています。生活が安定してみんなは十分に満足しています。
しかし、月日の経つうちに私は毎日ロボットのような授業やバイトが終わった後に、はっきり分からないストレスがどこかに隠されているような感じがしました。時々上安になりました。家に帰って、 一人で畳に座ってテレビを見ようとしている時、番組が多種多様であるけれども、私は精彩を放っている世界に全然入れませんでした。私は呆然としていました。 人間は何のために生き続けるだろうか?自分は何のために生きているだろうかなどの疑問が私の胸にわいてきました。私は日本に来て、 将来の見通しが立たず、日が経つにつれて、むなしい気持ちはますます強くなっていました。物質的な豊かさは精神的な空虚さを満たすことはできないと思いました。
毎週、寝る前に電話で父と話をしました。父には学校であったことや日本の学校や生活など話してくれました。習慣の違いや言葉が通じないことから、 行き違いがいっぱい起こりました。時々一人で笑っているうちに眠りにつきました。
私はもっと勉強したいと思いました。知識は精神的な空虚を満たすことができると思います。でも日本にいる短い間に、自分の力で生きることも学びました。これは私の一番の収穫です。自分が選んだ道は間違いないと信じています。これから先の道はまだ長いですが、 頑張って行きます。
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第95号 日本での生活、文化が違うとどんな感じを持つのか?
エルナ(インドネシア)
(2013年7月1日 機関紙 アジアの光)より
東京工学院専門学校アニメーション科漫画が大好きな私は初めて日本に来て、幸せな感じでした。その時はまだまだ日本語が話せなかったけれど、上安は少しも感じなかった。新しい家や、新しい友達や、新しい生活が始まると、私にとって、よみがえる気持ちになった。文化が違うので、驚いたこともたくさんあった。一つの例として、誰かに物をあげる時、日本人は左手で渡すけれど、自分の国で、もし左手で物を渡すと失礼なことです。私はこの習慣を見習うべきかを迷い、たまに右手で物を持ってるときに、左手で物を渡すことになり、日本はインドネシアではないから、まあいいや、と思うようになった。
日本の技術も素晴らしいと思う。日本の電車と新幹線をよく観察すると、やはり、日本の技術は世界で一番だと思ってる。技術と言えば、日本に来たばかりの時、一番驚いたことは、日本のトイレです。何のためにこのボタンがあるのかという疑問が生じた。便利すぎて、自分の国でも、こういうふうなトイレを持ってれば、いいなと思う。また、日本人の性格も様々あるけれど、ほぼ皆は真面目で、特に仕事のことは働き者と言えると思う。夜中に帰ってくるサラリ?マンをたくさん見て、大変な仕事かもしれない。自分の国ではサラリ?マンより、店を持ってる人とか、店員とか、屋台で販売してる人とか、夜中まで仕事する人ほうが多い。会社と違い、会社はちゃんと帰る時間になったら、普通に帰る。たぶん残業するサラリ?マンもいるかもしれないけど、夜になってから、あんまりサラリ?マンの姿を見ないです。
最初に日本に来た時は日本の文化にすぐ慣れると思ったけれども、その時は日本人の友達はまだ持ってなかったから、自分が自分で自由にやることのほうが多いので、異文化ということはあんまり感じてなかった。しかし、日本人の友達を持ったら、文化が違うということははっきり分かるようになった。日本語は壁になる時もあった。その時は外国人として私は、大目に見て欲しいと思った。この時に自分は「もう日本人になっている《と感じた。
私は日本にいる間、いろいろな経験を積みたいです。今、アルバイトでも、学校でも、集会でも、たくさんよい経験をもらった。人生に向けて私は日本からインドネシアに何か新しいことを持って帰れることをよく考えて、日本でちゃんと自分の習っていた専門を生かして、インドネシアの役に立つように頑張りたいと思う。
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第94号 日本での留学生活
チア・ポーレン(カンボジア)
(2012年12月1日 機関紙 アジアの光)より
一橋大学大学院経済研究科専修コース修士1年私はカンボジアから来たチア・ポーレンと申します。2009年4月に来日し、3年半間経ちました。日本に来たばかりの時、何も分からなくて、日本語のコミュニケーションも大変でした。日本へ来る前、日本語は少し習得してきましたが、日本の環境に慣れていないせいか、いつもホームシックになっていました。日本の最初の一年間は北新宿にある東京日本語教育センターで日本語を勉強していました。そこでは色々な国の留学生が多く、特に東南アジア留学生の友達ができて、どんどん楽しく過ごせるようになりました。そして、日本の国立大学で有吊とされる一橋大学へ修士課程に進学することができて、自分の誇りに思っています。日本へ来たのは海外初めての経験でしたが、非常に貴重な機会だと思います。日本へ留学することによって、考え方や視野が広くなり、物事を色々な角度から考えるようになりました。また、専門の勉強だけではなく、幅広く日本の社会、文化、芸能なども興味を持ち、出来るだけその文化を体験したり、現場を見て、勉強したりしています。今は日本のことが大好きで、日本人の考え方や、暮らし方、習慣などが独特で、もっと発見したいと思いました。
日本では、健康、安心、安全を考えることがあり、本当に重要だと思います。また、日本人の礼儀も、見習いたいと思います。どこに行っても、「すみません《「ありがとうございます《という言葉をよく耳にするので心がとても温かく感じます。さらに、多くの耐震施設、自動販売機等、人に対するサービスがよくて生活が便利で、暮らしやすいと思います。
私は今、東南アジア文化友好協会久米川寮で住んでいます。久米川周辺はとてもにぎやかで、買い物やレストランなどに困らない場所で、快適に暮らすことが出来ます。また、他の寮生と定期的に会って、お茶を飲みながら、各自の出来事や日本と自分の国などについて、楽しくお話して、良いと思います。時々、大学の勉強で、ストレスが溜まったりするので、このような時間があると、一瞬でも解消することができたと思います。皆優しく、明るい人で、また自国の事情をシェアしたら、皆の共通点があって、非常に面白く感じました。また、時々文化事業、研究会等があって、これらの事業に出ることで、ご年配の方とか、社会人とかに会って、交流することが出来たと思います。それから、日本で色々な人に出会って、コミュニケーションする上で、ありとあらゆることを理解することが出来ました。本当に感謝しています。
私は、地元を離れて、日本で3?4年長く暮らして、日本が第2番の国だと思い、また日本人の方々にお世話になって、暖かく感じています。日本での一人での留学生生活は最初に心配と上安があったものの、支えてくださった多くの人々への感謝の気持ち、また人間の優しさといったものの重要性を強く感じました。これからも、自分の勉強や目標に向かって、頑張って生きたいと思っています。
最後になりますが、日本で出会った皆様の温かい心を忘れずに、今後は帰国又はどこへ行っても、またお会いできることを祈っています。ありがとうございました。
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第93号 日本での留学生活
メイタ・ルンバヤン(インドネシア)
(2012年7月1日 機関紙 アジアの光)より
東京農工大学博士課程私はメイタ・ルンバヤンと申します。インドネシア、スラウェシ島の北にあるメナド出身です。東京農工大学の博士課程で学ぶ機会に恵まれ、日本で留学生活を送っております。私の研究科目は環境再生エネルギーですが、日本での研究生活には知識の他にも研究室でのディスカッションのような日本の研究システムや、研究室の教授からの指導、大学と産業界との合同研究など、様々な利点があります。
インドネシアでは卒業後に就職活動が行われるのが普通ですが、日本では卒業前に就職先を見つけることができるので、日本の友人達はとても幸せに思えるし、日本のこのシステムはとても良いと思います。
知識の他に、私は日本の社会や環境、文化について多く学ぶことができました。日本人は勤勉で時間に正確であり、お互いに尊重しあうのを見てとても良い印象を持っています。特に、駅の看板広告にまだ秋であるのに春の桜の写真を載せたりと、常に未来を見据えているような感じを持ったことです。また、鉄道やバスなどの交通手段では常に乗客は静かで交通渋滞でも我慢している所です。私が道に迷った時に場所や方向を教えてくれたりした時はとても感動しました。
日本は四季折々の生活を楽しめるのでとても興味深く、退屈することなど全くなく、 本当に時が過ぎるのがとても早く感じられます。私の趣味は写真撮影で、散歩をしている道すがら、日本の四季の変化の写真を撮ってよく現像します。花などは季節によって変わるでしょう。同様に店などの装飾や広告看板などもイベントごとに変わります。 毎週の週末には時間を見つけて博物館や公園、郊外の山、お祭り、都心から郊外までよく出かけますが、とても楽しんでおります。今でも覚えているのが、とあるお祭りで 日本の伝統音楽や食べ物を楽しみながら、着物を着たり折り紙をしたりしたことです。 とても素晴らしい思い出となりました。日本はドラえもんやハローキティばかりでなく、伝統文化や芸能を経験することができました。
お花見や温泉、雪に触れたり、人生で初めての経験をしましたが、その他に時々アルバイトで日本の人達と仕事をする機会に恵まれて日本の就業システムについて知ることができました。市役所などではとても親切にしてもらい、商店街ではとても大事にしてもらいました。
また、日本は夜歩いても安全であり、交通輸送機関も安全で気持ち良く使うことができます。ハイテク機器もどこでも使うことができ、自動ドア、CCTV、自動トイレも日本に来た時に驚いた記憶があります。駅も綺麗で静かであり治安も良く、日本語だけが難しいですが、毎日の生活はとても興味深く、心地よいものとなっています。
東南アジア文化友好協会の久米川寮に入ることができて感謝しております。綺麗で家賃も安く、心地よい環境を探していた私にとっては神への祈りの結果であると感じます。 また、久米川寮での他の国の寮生との交流も楽しく、集まって食事をしたりテレビを見たりしております。
日本での研究が終了した後には、インドネシアのメナドに戻って大学の先生になる予定ですが、日本で得た知識や経験をインドネシアで生かしたいと思います。インドネシアに戻ったら、多分日本のことを思い出して寂しくなると思います。だからこそ、帰国してもまた研究者もしくは旅行者としても再び日本を訪れたいと思っています。 もっと大学で研究に取り組んで将来のために生かしたいと思います。
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第93号 日本での生活
ショボン・エムディー・タンビール・ハサン (バングラデシュ)
(2012年7月1日 機関紙 アジアの光)より
東京工業大学工学部電気・電子工学学科3年私はショボンと申します。バングラデシュから来ました。今は、東京工業大学の工学部3年生です。専門は電機・電子工学です。私は2008年の4月に日本に来て、東京の日本語学校で1年間日本語を学びました。そして、愛知県にある豊田工業高等専門学校で、3年間勉強し、今年の4月に東京工業大学編入生として入りました。
私は初めて日本に来てから、この4年間で日本の文化、歴史や生活についてたくさんのことを学びました。学校からの修学旅行やホームスティに、日本の様々なところに行ったりして日本についての知識を深めることができてよかったと思います。私の国では想像できないことも、いろいろ経験してみるのは面白かったです。たとえば、私の国では寿司や刺身はぜんぜん食べないですが、日本に来てから初めて食べておいしそうと思いました。または、私の国ではみんなと一緒にお風呂に入るのはありえないですが、日本の風呂場でみんなが一緒に入るのを見て驚きました。このような、いろいろなことを体験してみて、2つの国の文化の違いや類似が分かりました。 私は東南アジア文化友好協会のことを先輩に紹介してもらいました。先輩がもともと住んでいた久米川寮での生活や他の国の留学生と交流ができることを聞いて、この寮に入りたいと思いました。そして、今年の4月から私はこの寮に住むようになりました。久米川寮の良い点は、部屋はとても広いし、必要な家具はすべて設置してあります。毎週あるミーティングも良いと思います。このきっかけで、私はラオス、インドネシア、カンボジアなど、様々な国の学生と話したりして、それらの国についてたくさんのことを知りました。または、みんなで外食するのも楽しいです。 私は勉強のため日本に来ました。この勉強にはただ専門の勉強だけでなく、周りの人々の生活のし方、文化、技術、教養など様々なことが含まれてあります。これらのことを学んで自分が成長できるように頑張りたいと思います。
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