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アジアの太いパイプで未来の人材を育成するSAFCA

理事長のご挨拶HEADLINE

見出し

第114号
「コロナ禍で会社を辞め世界中を廻ってきた元中国人留学生」
第113号
「コロナ感染とウクライナ戦争に思う」
第112号
「日本とインドネシアとの歴史的つながり」
第111号
「コロナ禍で神の声を聴く」
第110号
『コロナ感染は未来の考え方、生活様式を変える黒船』
第109号
『コロナ感染は未来の考え方、生活様式を変える黒船』
第108号
『クリスマスは「ゆるしと和解の時」』
第107号
『アジアから日本に来る若者に大事なこと』
第106号
「若い世代への継承その2 多文化共生へのスタート 」
第105号
「若い世代への継承 」
第104号
「財団創設者、加藤精神を継ぐものとなれ 」
第103号
「私の遺骨をマナドに埋葬してください 」
第102号
「母からのメッセージ」
第101号
「祖国に戻った留学生 その2」
第100号
「許しと和解の大切さ」
第99号
「戦後70年を迎えて」
第98号
「創立50周年を迎えて」
第97号
「祖国へ帰った留学生」
第96号
「戦争体験世代から次世代リーダーへのバトンタッチ」
第95号
「多様性の統一」
第94号
「アジア最大の親日国家 インドネシア」
第93号
「あなたの若き日に、アジアの国をよく見ておきなさい」
第92号
「愛するということ、それは人の心の痛みがわかることです」
第91号
「大震災から学ぶ」
第90号
「平和をつくる人は、隣人を愛する人」
第89号
「戦争の中での人間性」
第88号
「希望は死に打ち勝つ」
第87号
「あなたの行くべきカナンの地はどこですか」
第86号
「右の頬を打たれたら、左の頬をも向けなさい」
第85号
「謙遜と仕えるリーダーシップ」
第84号
「決断の勇気」

第114号 「コロナ禍で会社を辞め世界中を廻ってきた元中国人留学生」

理事長 大野克美
2022年12月1日(1)

 コロナ感染が始まって3年目になります。12月に入るとクリスマスシーズンになります。今年はその他、ロシア、ウクライナ紛争、中国を含めたアジアでの安全保障、エネルギー、生活に関係する物価高騰の問題等が連日マスコミで取り上げられています。SNSなどの通信の発達で、世界中のニュースが日本に入ってくるようになりました。財団の創設者である故加藤亮一牧師の時代とは、比べ物にならない程の情報が世界を駆け巡っています。いつも述べていることですが、東南アジア文化友好協会が関係した留学生、技術研修生が、インドネシア、シンガポール、カンボジア、ラオス、バングラディシュ、中国、フィリピン等に戻って祖国で活躍しています。今回は中国関係の元留学生さんを紹介します。中国との関係は日本の将来に関してとても大事で、アメリカとの付き合いと同じくらい重要です。10年後、20年後の世界のリーダーも変わっているでしょう。
 中国の人に関する人を紹介する場合は、少し注意が必要です。中国の情報管理はとても細かく、特に人物に関しては表現できることが限られてきます。Aさんとしておきます。Aさんは中国の有名な大学を卒業し、日本が大好きなので日本と中国の懸け橋となれるような仕事につきました。日本と中国を行ったり来たりの往復で、大変忙しく働きました。日本と中国を往復する航空会社で、飛行機を利用した回数が一番多かった人とも言われたそうです。コロナの感染が日本でも中国でも広がり、ビジネスにならなくなったそうです。Aさんは若かったので、会社をすぐ辞め、「コロナ禍でも注意しながら、世界中を見てこよう」と決心しました。彼は「自分は中国人なので、他の国の人達が何を考えているか知りたい」と南北アメリカ大陸、ヨーロッパ、北欧、中近東、アフリカ、アジアと2年間、旅を続けたそうです。中国でも多くはいませんが、このような人が増えているそうです。
 自分の専門分野での知識を持ち、世界の人達との交流を深める人達が中国でも広がっているようです。今の中国ではこのような人達が、今後どのように活躍できるか未知数です。中国についても、彼の廻ったいろんな国の話でも、とても参考になる話をしてくれます。中国も、アジアの国も、それぞれ難しい問題を抱えています。これらの難しい課題を解決していくのは、「今の若い世代の人達です」。
 東南アジア文化友好協会に関係した留学生は故加藤牧師の「人間はみな兄弟である」この精神を理解している留学生が多くいます。この人たちが活躍できることを願っています。
 
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第113号 「コロナ感染とウクライナ戦争に思う」

理事長 大野克美
2022年7月1日(1)

 コロナ感染が始まって、3年目に入っています。こんなに長引くとは誰も想像できなかったでしょう。それに加え、今年からウクライナとロシアの戦争が始まっています。私たち財団の活動範囲は東南アジアが中心です。財団の創設者である、加藤亮一牧師は太平洋戦争を通して、悲惨な経験して日本に戻りました。日本に戻ってから、「償いの業」を開始しました。旧日本兵とインドネシア、フィリピン、シンガポール等、現地夫人との間で、生まれた子供たち、戦争に巻き込まれて両親を亡くし、戦争孤児になった子供たちがいました。加藤牧師はこの戦争孤児を日本に招聘し、日本の大学、技術専門学校で学ばせ、祖国に戻す活動を行ってきました。
 私は先日、シンガポールの友人T氏から電話を受けました。私は74歳、T氏は78歳です。T氏は戦争孤児で日本にいる時、面倒を見てくれたのは、評論家のN氏でした。電話によれば、N氏が90歳でなくなられたとのことでした。N氏は日本の歴史ではあまり教えませんが、「シンガポールの華僑虐殺事件」「インドネシアのポンティアナク事件」などに詳しい方でした。シンガポールのT氏は「自分はN氏の告別式に行けないが、くれぐれもよろしく伝えてください」とのことでした。50年前に、私はN氏、T氏ともよく話しました。N氏は「戦争が始まると、人は人格が変わってしまう、お互いの大量虐殺が始まってしまう」、シンガポールのT氏は「家族、知人が殺害に会うと、相手に対する憎しみ、恨み、辛みは簡単に消えず、報復の連鎖につながる」、このような言葉が思いだれます。しかし、シンガポールのT 氏は日本、および日本人に関しての否定的な感情は全く克服しております。なぜこのようなことを書いているかというと、最近の世界の動きを見ているとウクライナ、ロシアの緊張関係がアジアに飛び火しないかと心配するからです。SNSなどの通信手段の発達した現代では、地球上で起きた小さな事件でさえ、一瞬の間に多くの国々に伝わります。歴史背景、民族、宗教、言語などの違いにより価値観の衝突が起こりやすくなっています。
 当財団に関係した800名以上の留学生がアジア諸国に戻っています。これからアジアの中でもいろんな問題が発生します。問題があっても解決しなければなりません。財団の創設者、加藤亮一牧師の提唱する「人はみな家族であり、友人である」この基本精神を大事にして平和を創るものとして活躍していただきたい。そう願うものであります。
 
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第112号 「日本とインドネシアとの歴史的つながり」

理事長 大野克美
2021年12月1日(1)

 コロナ感染が始まってから、既に2年が過ぎ去ろうとしています。コロナの感染者数は2021年の12月現在でかなり減少してきました。それでも、財団の仕事は制限がかかってきます。実際に動き回る活動が少なくなるため、調べ物など、家の中での仕事が増えています。12月は財団の創設者、加藤亮一牧師が亡くなった月でもあります。亡くなった日がクリスマスの日で、30年が過ぎ去りました。財団の歴史を顧みながら将来の活動の方向性を模索しております。加藤牧師は遺言で「私の遺骨をマナドに埋葬してください」とのことでした。そのほか、ジャカルタ、マルク諸島のアンボンにも分骨して欲しいとの希望があり、まだ済んでいません。最近のメディアの報道を見ていると、日本と東南アジアの関係がよく出てくるようになりました。それでは日本と東南アジア諸国との関係はいつ頃から関係しているのでしょうか。
 特にインドネシアとの関係はだいぶ前にさかのぼります。戦国時代の終わり頃から、日本史では豊臣家と徳川家の戦い、関ケ原の戦い、大阪夏の陣で勝利した徳川家康の時代頃から始まります。世界史的に見ると、徳川方がヨーロッパで力をつけてきたオランダと手を組み、スペインと手を組んだ豊臣方に勝利した頃からです。オランダは徳川方に勝利の見返りとして、日本の侍を東南アジアの地域へ傭兵として送って欲しいとのことでした。その頃の東南アジアはスペインとオランダの植民地の略奪戦の最中です。オランダはすでに近代資本主義の元祖である、東インド会社を設立させていました。オランダはこの会社と日本の傭兵を利用してスペインから植民地の多くを奪い返しました。加藤牧師が太平洋戦争中に過ごした、又は関係したマルク諸島のアンボン、セレベス島のマナドが中心です。日本と東南アジアの関係の第一波は400年ほど前になります。第二波は太平洋戦争で、石油を求めて東南アジアの国々に南下してゆきました。加藤牧師が終戦後インドネシアから戻り、「償いの業」を始めて既に60年になります。財団に関係し東南アジアの祖国に戻った留学生も800名以上になります。これから、日本と東南アジア諸国の第三波の関係がどうなってゆくかはとても重要な課題です。財団の理念である「人間はみな兄弟である」が生かされる関係を願っています。
 
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第111号 「コロナ禍で神の声を聴く」

理事長 大野克美
2021年7月1日(1)

 コロナ禍でアジアの光の原稿を書いていますが、コロナ感染が始まってから、すでに500日以上が過ぎ去っています。東南アジア文化友好協会の創設者である、故加藤亮一牧師が生きていれば、どんなことを考えているかを考えます。加藤牧師も昭和19年の太平洋戦争の時、マラリアの病気にかかってしまいました。現在はマラリアの感染はほとんどなくなりましたが、戦時下では多くの兵隊が感染しました。加藤牧師はインドネシアのマルク諸島、アンボン、サパルア地域で現地の人達と共に神様のために働きました。 マラリアに感染して死線をさまよう中で、加藤牧師はこう祈りました。「神様、もし加藤がこの死の病床から再び立ち上がることが出来たら、このサパルアの人々の愛に報いるために、私の残る生涯をインドネシアのためにささげます。どうかこの重い病気を癒し神様の器としてお用いください。」
 東南アジア文化友好協会の活動もコロナ禍でほとんどの活動がストップしています。現在、財団は東南アジアからの留学生をお預かりしています。財団に関係し、東南アジアの祖国に帰って行った留学生も800名以上になります。現在の東南アジア諸国の人口は5億人位になっています。加藤牧師が過ごした戦時下の状況と、終戦後75年過ぎた現在では世界は大きく変化しました。特に現在のコロナの世界的感染拡大を通して、地球が本当に狭くなり、SNSなどの通信技術の発展により、国家、民族、宗教が国境を越え「密な社会構造」になっていることを感じます。財団の留学生はインドネシア、タイ、ベトナム、ラオス、カンボジア、バングラデシュ等からの学生です。彼らは自分の専門分野のほかSDGsにも興味が深いようです。彼らも日本にいて祖国のコロナ感染状況を心配しています。
 最近では、インドの変異株コロナが拡散をひろげ、さらに変異を重ね、ベトナム、マレーシアと広がり、さらにインドネシアにも広がりを見せています。コロナ禍では実活動が制限されます。このような時は「静まって、神の声を、じっくり聴く」そしてコロナが過ぎ去った次の段階で「何が自分の役割」を考えて欲しいと願っています。財団の基本理念である、「人間は皆兄弟であり、家族である」を大事にしてお互いの祖国のために祈りましょう。
 
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第110号『多様性と分断について』

理事長 大野克美
2020年12月1日(1)

 毎年12月になると、財団の創設者である故加藤亮一牧師のことを思い出します。
 加藤牧師は28年前のクリスマスの日に亡くなられました。今年は、財団の50年以上の活動の中でもかなり変化のある一年でした。コロナの影響で人と会う機会が本当に減りました。こんな経験は初めてです。私たちの財団は東南アジア諸国からの留学生を数多く受け入れてきました。「償いの業」の働きを通してすでに800名以上の留学生が祖国に戻りました。関係した国の人達を数えると、インドネシア、マレーシア、シンガポール、フィリピン、バングラデシュ、カンボジア、ミャンマー、中国、台湾、韓国などです。いまだに祖国の帰った留学生とは関係を保っている人も数多くいます。
 私は現在73歳になりますが、50年前の青年の時代と現在を比べると大きな変化を感じます。特にこの一年はコロナの感染が地球上を覆いつくし、多くの問題を発生させています。50年前と比べると情報産業の発展がすさまじくSNS等のシステムを使い簡単に個人同士、国家間の情報も簡単に得られるようになりました。情報が多くなると心配事も増えてきます。私は少し前までは「多様性の力」とそのダイナミズムをかなり強く信じていたのですが、最近、すこし問題もあるなと感じるようになりました。その原因は世界各国のコロナ感染対策とアメリカの大統領選挙をみているからです。アメリカの友人の言葉で「Freedom without boundary is sin(囲いのない、自由は罪)が心に残ります。個人、団体のあまりに強い、民族、宗教、独裁主義に基く主張はお互いの幸福を崩し「分断」をもたらしてしまうからです。個人、個人の直接の付き合いがない中で、情報だけが駆け巡るのは少し危険と感じるようになってきました。あまりの情報が多いために「分断」が加速されてきた感じがするのです。財団の活動の初期は留学生全員が共同生活でした。国、文化、生活習慣が違う者同士で生活するのですから、当然問題が発生します。自分の考えと違う人が真の友人となっていくにはどうしたら出来るのでしょうか。とても難しい問題です。大事なことは時間を共に過ごすということです。時間をともに過ごすと喜びも、苦しむことも与えられます。お互いの立場とかバックグラウンドが理解できるようになると相手に対して忍耐が生まれ、相手に対する言葉の表現にも愛情のスパイスが含まれてきます。コロナ禍で極端な情報に引き込まれない注意が必要で、間違った情報が人々を分断させないことを願うものです。
 
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第109号『コロナ感染は未来の考え方、生活様式を変える黒船』

理事長 大野克美
2020年7月1日(1)

 最近、私の生活スタイルは大きく変わりました。ここ3か月、ほとんど外に出ることがありませんでした。巣ごもり状態でした。普段は群馬県の万座温泉に住んでいますが、東京に出かけていくこともありませんでした。これは初めての経験でした。これは新型コロナ感染が世界中に広まったためです。その他、最近気になる出来事はアメリカで起こっている人種差別の問題です。そこで考えたのは、もし東南アジア文化友好協会の創設者、加藤亮一牧師であったらどのように考えているだろうかということです。
 加藤牧師は戦後インドネシアから日本に戻り「償いの業」を始めました。アジアの国々より、日本人の父を持ち現地の婦人との間に生まれた子供、その他、両親が戦争に巻き込まれて親を失った子供たちを日本に呼び寄せ、彼らに大学や専門学校で勉強できる機会を与えました。祖国に帰った青年たちは800名以上に及びます。加藤牧師は池袋教会に隣接する学生寮で、毎日アジアからの学生と共同生活をしながら、彼らを訓練しました。若い青年たちと聖書勉強会を持ちましたが、その中で、私の尊敬する人物は「賀川豊彦とインドのガンジーです」と語っていました。ガンジーはイギリスに留学しましたが、イギリスの身分制度に良いイメージを持てませんでした。そこから植民地支配に反対する「非暴力運動」が始まったと話しておられました。
 今日、日本にも多くの外国人旅行者や職業を求めて外国から人がやって来ています。日本で住み続ける外国の人も増えてきています。日本が今のアメリカ、EUのように人種差別のデモが起きるとは思いませんが、日本の人も外国の人達と共に生活することに慣れていく必要があります。現在、世界中がコロナ感染で人々は苦しんでいます。コロナ感染を通してそれぞれの国が持つ「強みと弱み」が浮き彫りに出てきています。コロナ以後にどのような世界と生活様式がやってくのかわかりません。現在のコロナ感染、人種差別は先が見えませんが、なんとか英知を結集して3年から5年先には希望の光を見出したいものです。加藤牧師が提唱した「人間は皆大切な兄弟である。リーダーは人々に仕える謙遜な心を持て。どんな時でも許しと和解の心を持て」このような言葉が一人一人の心に根差していくことを願うものであります。
 
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第108号『クリスマスは「ゆるしと和解の時」』

理事長 大野克美
2019年12月1日(1)

 毎年クリスマスになると、東南アジア文化友好協会の創設者である加藤亮一牧師を思い出します。最初に加藤牧師にお会いしたのは50年前で大学1年生の時でした。加藤牧師はすでに、アジアの人達に対して「償いの業」の働きを始められた頃でした。私はこの加藤牧師より洗礼を受けました。池袋教会の一部が学生寮となっており、加藤牧師が自ら寮長になり、東南アジアから来た学生さん達と共に20 名位で共同生活をしていました。学生さんのお父さんは元日本兵でお母さんは現地の婦人です。
インドネシアからの学生が中心でその他、シンガポール、フィリピンの人達もいました。加藤牧師は共同生活を通して多くの学びを学生さん達に伝えようとしていました。当協会の基本理念の中に、リーダーになるには「仕える人」にならなければならないとあります。これを教えるために加藤牧師は誰よりも早く起きて自らトイレ掃除をしていました。アジアの国では一般的にトイレ掃除は身分の高い人は行いません。これを見ていた学生さん達の中には加藤牧師を手伝う人も出てきました。共同生活すると、国も違えば性格も違い価値観も違っています。このため「もめ事」も多くあります。
クリスマスはイエスの誕生日ですが,「ゆるしと和解」の時でもあります。加藤牧師は寮生の中で「もめ事」が起きるとよく言っていました。「頭に来た人のところに行って、こんな事であなたのことをよく思っていなかった。もし自分にも誤りがあるなら許して欲しい」と言ってください。そして相手の人があなたのために何かしてくれたら、「ありがとうございます。あなたには感謝しています」と言ってください。加藤牧師は実践の人でした。最後に、ゆるしと和解を通して世界に平和が築かれることを願っています。
 
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第107号『アジアから日本に来る若者に大事なこと』

理事長 大野克美
2019年7月1日(1)

 東南アジア文化友好協会は第二次大戦後、加藤亮一牧師によって創設され、『償いの業』の活動が始まりました。すでに57年が過ぎ去り、アジアの祖国に帰っていった留学生、研修生の人達は800名以上に及びます。私自身も、加藤牧師より教えを受け、活動に参加し、50年が過ぎ去りました。時代も昭和、平成、今年から命和の時代に入りました。活動の内容もかなり変化してきました。50年前、私が大学生の時代は、『償いの業』の活動の初期にあたり、日本に来た留学生は、父親が日本人兵士で、母親が東南アジアの現地の婦人との間で生まれた若者がいました。その他、両親が戦争にまきこまれ、その犠牲になった人たちも多くいました。日本に留学して祖国に帰った第一世代の留学生さんもすでに60歳?70歳になっております。戦後70年経つと、東南アジアにおいては、中国、韓国ほど戦争の傷跡は深く感じられない感じがします。台湾、インドネシアのように日本に対して好印象を持ってくれる国もいます。特に最近では日本の歴史の中でこれほど多くの外国人が日本に来るようになったのは思ってもみなかったことです。
 少し歴史をさかのぼれば、明治維新前後になって、日本は外国に門戸を開き、外国の人達から多くを学びました。国として力をつけましたが、敗戦という体験をしました。ここから日本は、再び失敗から学び今日を迎えています。今までの外国の人達との付き合いは、比較的エリートの人達との関係が中心でした。しかしながら、外国の人達の交流がエリートに限らず、一般の人達とも交流が増えています。最近では外国から日本に観光に来る人が3,000万人を超えてきました。この数はいずれ、ヨーロッパのフランス、スペイン、ドイツ、イタリアにも近づいていくでしょう。また日本で暮らしている在留外国人は250万人位います。最近では、昔から日本に永く住んでいる中国、韓国の方々の他に、留学生30万人、技能実習生27万人ほどに増えています。今の日本は、外国の方々が日本にやってくる歴史の大転換期に入っているようです。
 財団との関係では、昔は、祖国に帰った留学生さんからの相談では、親戚、知人の方の留学相談がほとんどでしたが、最近では東南アジアの若者が日本で働きたいとの声が増えてきました。財団の理事、評議員の方もアジアの若者のお世話をしている人が多くいます。
 加藤牧師がアジアの若者に残した財団の基本理念である次の言葉が今後ますます重要になってくるでしょう。

 人間はみな兄弟である。
 指導者たらんと思う者は下僕となれ。
 
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第106号 「若い世代への継承その2 多文化共生へのスタート」

理事長 大野克美
2018年12月1日(1)

 東南アジア文化友好協会は故加藤亮一牧師が創設しすでに56年が過ぎ去りました。「償いの業」の活動を通して800名以上の留学生、研修生がアジアの祖国に戻りました。この中でもインドネシアに帰った人が多く帰ったことは前回にも述べました。私は大学生の時から、留学生、研修生のお世話をする仕事に携わって50年以上が過ぎ、現在70歳になりました。今年の8月にインドネシアのジャカルタで行われたアジア大会をテレビで見ていました。戦後70年経つとアジアの都市の成長はものすごいものだと感じました。ジャカルタのマラソンの背景には巨大な高層ビルが並んでいましたが、50年前は草むらで、ビルは殆どありませんでした。戦後アジアの国が成長をしていく過程で、留学生、研修生は祖国に戻り自国の発展のため貢献をしてまいりました。当財団では以前にも書きましたが、今まで事務局で働いてくださった和氣一樹さんが2年間ジャカルタで勉強して日本に戻りました。日本ではアジアから留学生と共同生活をしながらお世話をしているわけですが、今度は自らインドネシアに行って現地の生活を経験してきたわけです。大学でインドネシア語を学ぶ傍ら日本語も学生達に教えました。
 現在日本では少子高齢化に伴い労働者の不足に伴い、入管法の改正が議論の的になっています。以前にも述べましたが、現在の日本ではあらゆる分野で働き手の不足が起きており、外国人が働いてない分野はないほどです。アジア諸国で日本語を教えている先生の立場からすると、日本語を学んだ人達には学びを生かして日本へ留学、また日本で働いてもらいたいとも考えています。日本で学んだことのある第一世代の留学生さん達も、自分の子供たちにそう願っている人が多くいます。当財団では、今まで留学生さんをお世話することに力を入れてきましたが、今後研修生の受け入れにも力を入れていくことを考えています。おそらく日本は今後10年から20年の間にかなりの優秀な人材と一般の労働者の人達が働いていることになると思います。
特に若い世代の人達は外国の人達が友達であり、働くライバルである時代になると思います。これからの若い世代の人達は国際結婚も進み、自分の価値観と違った多文化の中で生活することが必要となってきます。当財団は50年間の活動を通して多文化の中でどのようにしたらお互いが幸せになれるかを勉強してきました。若い世代の人が多文化の中でリーダーシップをとれるよう期待しております。
 
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第105号 「若い世代への継承」

理事長 大野克美
2018年7月1日(1)

 東南アジア文化友好協会は故加藤亮一牧師が創設しすでに55年が過ぎ去りました。「償いの業」の活動を通して800名以上の留学生、研修生がアジアの祖国に戻りました。インドネシア、フィリピン、シンガポール、マレーシア、タイ、ラオス、カンボジア、ミャンマー、バングラデシュ、中国などです。当財団の、留学生第一世代はすでに60歳前後の年で、インドネシアに帰った人達が中心です。その理由は、加藤牧師が太平洋戦争のとき、インドネシアで過ごしたことが原因です。彼らは祖国に戻り、すでに退職をしている人も出ています。日本でいうと団塊の世代の人達です。第二世代の人達は、50歳前後が多く、この人たちがこれに続いています。最近の当財団では、インドネシア、タイ、ラオス、カンボジア、ミャンマー、バングラデシュ、との関係が深まっています。20歳から30歳前後の留学生さんです。
 最近の日本では、東京や地方に行っても留学生さん、研修生さんをよく見かけます。居酒屋、スーパー、コンビニ、建設現場、農業、介護現場など、すでに日本では外国人の方々の助けがないと経済が回っていかない状況になっています。アジアの祖国に戻った留学生さんと話すと、日本との関係も本当に近くなったと感じます。彼らが祖国に戻って働くと、まわりの人達から「私も日本に行って勉強し、働きたい」との話が出ます。このような希望に何とか答えてあげたいのです。当財団でも若いスタッフで、和氣一樹さんが事務局で働いています。元「一流会社」で働いていましたがアジアの国々に興味を持ち、会社を辞め、財団の留学生寮長をすることになりました。留学生との共同生活で多くを学ぶようになってきました。そこで財団では、和氣一樹さんをインドネシアで1?2年の間、現地に派遣することになりました。インドネシア語を現地で学び、また日本語を教えるためです。
 現在日本では留学生が約26万人(大学、専門学校、日本語学校等)、研修生(農業、建設、介護、サービス業等)が約24万人働いています。日本の歴史では、明治維新から外国人との付き合いが本格的に始まりましたが、この時は政府の人達と知識人の一部の人達でした。それから100年経つとエリート同士の交流から一般市民どうしの交流に変化しました。こんなに変化するとは想像できませんでした。
 財団設立当時から、加藤牧師が留学生に教えた精神は次のようなものでした。1)人間はみな兄弟である。2)頭となりたければ、僕となれ。3)自国の繁栄のためには最大限度の犠牲を捧げるが、自己のためには最少限度の生活に甘んじる。アジアと日本との若い世代の人達がこの精神を生かして共に頑張ることが期待されています。 
 
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第104号 「財団創設者、加藤精神を継ぐものとなれ」

理事長 大野克美
2017年12月1日(1)

 毎年12月になると財団創設者の故加藤亮一牧師のことを思い出します。先生は、平成3年(1991年)12月25のクリスマスの日に81歳で天国に凱旋いたしました。亡くなられた日が、クリスマスの日であるのも何か意味があるのではないかと思います。今ご存命であれば、今年で生誕107年となります。先生が33歳の時、太平洋戦争が始まり、1943年の時、インドネシア・アンボン島地域の教会に宣教師として派遣されました。日本では戦時中、兵隊としてよりも、牧師として派遣されるのはめずらしいことです。戦争当時、アンボン島はオランダに支配され、キリスト教徒が多かったからです。戦争は武力で勝つよりも、その後の平和を作るための統治の方が難しいと言われています。
 少し前にNHKテレビで戦争の傷跡の番組で、「日系オランダ人」の特集を放映していました。殆どの日本人は日系オランダ人といっても分からない人が多いと思います。今の中東の現状を見るとそのことがわかります。加藤先生は、現地では伝道、奉仕、神学教育、民生向上に尽くしました。戦争が終わる昭和20年4月にマラリアにかかり、1か月近く40度の熱が続き、死の淵を歩みました。この時、アンボンでも食糧事情が大変厳しかったにもかかわらず、現地の人達は献身的な愛の手を差しのべてくださいました。このことによって、奇跡的に病を癒すことが出来ました。この死の床に差し伸べられた献身的な愛に対する感謝と戦争中に同胞が犯した数々の罪の償いのために、残る生涯をインドネシアやアジアの人々のために献げる決心をしました。戦争中悲惨な経験をして、日本に戻り、「償いの業」の活動を始めました。戦争孤児を日本に招き、彼らを大学、専門学校で学ばせ、祖国に戻す働きを行ってきました。
 財団を通して祖国に戻った留学生も、50年過ぎ800名以上になりました。現在、日本とアジアの国々との関係を見回すと、必ずしも良好になっていない国もあります。国同士の関係が、必ずしも良好でない場合でも、個人個人の友好関係はとても進んでいます。祖国に帰った留学生がそれぞれの場所で平和を作っていただきたいと加藤牧師は願っているでしょう。財団で学んだ次の精神がとても大事です。

1、 人間はみな兄弟である。
2、 指導者たらんと思うものは下僕となれ
3、 自分自身は最小限度の生活をし、民生の発展に関しては最大の奉仕をしなければならない。
 
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第103号 「私の遺骨をマナドに埋葬してください」

理事長 大野克美

東南アジア文化友好協会の創設者である加藤亮一牧師は1991年12月に亡くなられました。すでに25年が経ちました。加藤先生が亡くなられる前に遺言で「私が亡くなった後、私の骨を、インドネシアのアンボン、マナド、ジャカルタに分骨してほしい」とのことでした。すでに加藤先生の遺骨はアンボン、ジャカルタには埋葬できました。いろんな事情でマナドには埋葬できませんでした。マナドはセレベス島の北端に位置し、フィリピンのミンダナオ島のダバオから近い位置にあります。
加藤牧師が戦争から戻って始められた「償いの業」の事業が始まりアジアの諸国に戻っていった留学生、研修生は800以上に及びます。そのうちインドネシアの留学生が最も多く、マナドからの留学生も多くいました。インドネシアの中でもマナドは特徴があり、キリスト教の人達が多くいるので有名です。インドネシアの人口は2億5000万人で、世界最大のイスラム教国家です。約90%がイスラム教徒ですが、逆にセレベス島のマナド周辺の人口は200万人位で90%がキリスト教徒です。最近はアジアの人達が日本に住むようになりました。池袋は中国の方、新大久保は韓国の方、葛西はインドの方、早稲田はミャンマー、ベトナムの方などが多いようです。それではインドネシアの方々は何処かというと茨城県の大洗町です。数年前に私も知りました。ほとんどの方がマナドから来ていると聞きました。実は私が住んでいる群馬県の嬬恋村は高原キャベツ栽培で有名です。皆様が食べる夏秋期(7月?10月)に食べるキャベツは嬬恋産のものです。最近では農協を通してアジアからの研修生さんが多く働いています。特にインドネシアよりの研修生はマナドからの人が多いのにはビックリしました。
マナドは最近では若者がダイビングで出かける人が増えているようです。マナドの人達の顔つきは、日本人に似ている人が多くいます。ブラジルは日系の人が有名ですが、マナドも日系の人が多くいます。戦争中に現地の婦人と結婚した元日本兵が多くいたからです。女の人はマナド美人といわれる方が多いのです。すでに日系の二世、三世の時代に入っています。ヨーロッパ系の顔つきの人も多くいます。今後の日本とインドネシアの関係ではマナドが注目されてくると思います。日本が高齢化するなかで、看護、介護の問題で結びつきが深まってくると思えるからです。マナドに戻った留学生さんたちにも頑張って欲しいと願っています。
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第102号 「母からのメッセージ」

理事長 大野克美

東南アジア文化友好協会は、創設者の加藤亮一牧師の始めた、「償いの業」の考えを大事にしながら、アジアからの留学生、研修生を日本に受け入れて来ました。第二次世界大戦中に、日本兵とアジアの現地婦人との間に生まれた子供達が主な人たちです。あるいは、アジアのなかで起きた、戦争の悲しい事件で親を失った子供たちです。戦後70年が過ぎ、当財団の活動も50年が過ぎました。祖国に帰った留学生、研修生はすでに800名以上にのぼります。最近の日本と東南アジアとの関係は、まだ良いのですが、日本と中国、韓国との関係はあまり良くないようです。 先日、私は母を亡くしたのですが、96歳でした。本当に元気な人でした。母は満洲からの引揚者です。母が亡くなって遺品を整理していたのですが、その中で、母が戦争体験を綴って戦友会に投稿していた文章が見つかりました。母は終戦を満洲の興隆(承徳の近くの村、承徳は日本でいうと軽井沢に似た町)で終戦を迎えました。その時母は妊娠9ヶ月目に入っていました。父と母は家庭の中で戦争の話をすることは滅多にありませんでした。父は全くありませんでした。 体験談を読んでいくと、終戦の翌日からその地にいると命に危険が及びそうになるので、早く逃げなければならない、そこから二百数十名の部隊の逃避行が始まりました。3日間野を越え、山を越え、やっと万里の長城の麓につき、それからまた5日間たって北京に着きました。正月を北京で過ごし、翌年2月に日本の土を踏むことが出来ました。その時の経験した、心配、不安が綴られていました、最後のあとがきに、「もう一つ気になることはつい先日まで、戦争の被害者だと思っていたところ、今は加害者と言われているようだ。考えてみれば確かに戦争を体験している以上、『戦争のことは全く経験していません』とは言い切れないうしろめたさを感じる」とありました。また、「若かったからあの逃避行にも、難民生活にも耐えられたのだと思うのだが、今後の若い人達に二度とあの轍を踏ませてはならない、だから私達は生命ある限り平和を叫びたい」とありました。当財団にも祖国に戻った留学生さん、関係者の方々も多くいます。先人の先生、先輩達が残した貴重な教訓を大事にし、お互いに平和を作るものとしてこれからも働いていきたいと思います。 
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第101号 「祖国に戻った留学生 その2」

理事長 大野克美

加藤亮一牧師が公益財団法人を設立して50年が過ぎ去りました。加藤牧師は、戦争で命を授かった子供たち、つまり、お父さんが日本兵、お母さんがアジア現地の婦人との間に生まれた子供たち、あるいは、戦争に巻き込まれて両親を失った子供たちを日本に迎えました。彼らを日本の大学、専門学校で学ばせ、彼らの祖国に戻す。このような「償いの業」の活動を行ってきました。その数は東南アジアを中心に800名以上の留学生が自分たちの祖国に戻りました。加藤亮一牧師がインドネシアのアンボン島に牧師として派遣され、その地で悲惨な戦争体験をしました。アンボン島は長年の間オランダが支配したためキリスト教徒が多数を占めていました。加藤牧師は、身分的には海軍少佐でしたが、現地の人たちとよき関係を持つため、牧師の仕事をしておりました。加藤牧師の下で聖書を学んだ若き青年もたくさんおりました。このような関係で当財団とインドネシアの関係は深く、すでに400名以上の留学生が祖国に戻りました。私は学生の時から加藤牧師の下で教えを受け、財団の仕事を手伝っていました。私が初めてインドネシアを訪れたのは、1970年の万博の年でした。45年前で大学2年生の時です。この当時のインドネシアはまだ経済発展の初期でしたから、高層のビルなどは全くなかった状況です。今日の首都ジャカルタの聳えたる高層ビルを見ると、ジャカルタも上海に似てきたのかなと感じます。今回はジャカルタに戻った一人の留学生を紹介します。彼はインドネシアに戻り、ビジネスマンとして働いています。インドネシア経済が発展するにつれ、ジャカルタの交通渋滞は激しくなり、道路の脇はかなりのゴミで散らかっています。彼はこの状況に心を痛めていました。シンガポールも昔はゴミでかなり道路も汚かったのですが、今日ではとてもきれいな町に変身しています。このようにきれいな町になって欲しいのですが、インドネシアではゴミを片付ける人があまりいないのです。そこで彼はひとりで毎日ゴミを拾い始めました。彼を見ていた人もだんだんと彼に協力する人が出てきました。今ではジャカルタに「お掃除倶楽部」がいくつもできるようになりました。彼の働きはメディアで取り上げられるようになりました。ジャカルタがシンガポールのようになるのは大変だと思いますが頑張ってほしいと思います。アジアに戻ったユニークな人がまだいます。また紹介していきます。 
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第100号 「許しと和解の大切さ」

理事長 大野克美

 12月になると、クリスマスシーズンがやって来ます。街角ではジングルベルの歌が流れ始めます。今回はクリスマスシーズンの中で、「許しと、和解」について考えてみたいと思います。私は大学卒業後、人格の訓練として、男性だけ5人で一軒家を借りて共同生活を1年間したことがあります。いざ共同生活を始めると、性格も違い、生活パターン、それぞれの人の癖などあり、始めのうちは良いのですが、だんだんと頭にくることなどが増えてきます。人格訓練の基盤になるのは聖書からの学びが中心でした。共同生活をすると、いろんな問題が発生します。問題が発生し感情的になってくると、一緒に生活をしていても、なんとなく、よそよそしくなってきます。相手と話すことも嫌になってきます。こんな状況の中で、私たちのリーダーである宣教師さんが共同生活の家を訪ねて来てくれました。リーダーは私にこんな質問をしました。「あなたは、あなたの友人に対して何の話しもしませんね。何かあったのですか?」。私は答えて「彼とはしゃべる気もしないのです」。リーダーの宣教師は答えて「アー、そうですか。でも聖書にはこう書いてありますよ。もし、あなたが私(神)の前で祈るとき、誰かがあなたを、恨んでいると感じるなら、その人のところへ行って和解をし、それから私の前で祈りなさい」。でも、私は自分のほうが正しいのに何で相手に謝らなければならないのかと思っていました。でもせっかくリーダーが言ってくれたので、2日程たって友人に会いに行きました。友人に対して「私はあなたに対して大変憤慨しています。でも、私も気付かないであなたに対して不愉快なことをしていたのかも知れません。もしそうであったら私を許してほしい」と言いました。友人はこれに答えてくれ、お互いに祈り和解が出来ました。
 この共同生活での経験は私が社会人になってからも大きな助けになりました。現代の複雑な社会で仕事をしていれば、必ず人間関係のトラブルに直面します。世界も狭くなり、民族、人種、国家間での利益の衝突、いろんな問題が発生します。問題が完全に解決されることもないかもしれません。でも大事なことは、まず個人と個人の信頼関係を築くことがとても大事なことだと思えます。そのためには、まず自分から嫌な相手でも出かけて行く、自分が正しいと思えても、自分にも何か誤りがあり、自分を変えなければいけないこともあるかも知れないと決心すること。自分にも誤りがあるならば許しを請う。そうすれば和解が成立するかもしれません。クリスマスは和解の日でもあるのです。人間関係のトラブルの中にある人に平和と和解が生まれるようお祈り申し上げます。 
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第99号 「戦後70年を迎えて」

理事長 大野克美

 最近のテレビ、新聞を含むメディアの報道をみていますと、戦後70年経ったことが伝えられています。天皇も太平洋戦争の激戦地、パラオを訪問されました。東南アジア文化友好協会も2012年には公益法人の取得ができ、50周年記念の式典が終わりました。当財団は加藤亮一牧師によって設立されました。加藤先生は牧師という立場で戦争に参加し、多くの悲惨な体験をしました。「いまは、つぐないの時」(聖文舎)の著書に体験が書かれています。
 日本人で牧師として戦場で働くということは、めずらしい体験です。アメリカ、ヨーロッパの人達に話すと「牧師でそんな日本人がいたのですか」と良く聞かれます。加藤牧師は日本に戻り「償いの業」の活動を開始されました。私は大学生の時初めて加藤先生に会いました。48年前です。日本兵を父に持ち、東南アジア現地の夫人との間に生まれた子供達、戦争により悲惨な事件によって、両親を失った子供達を日本に迎え、この子供達を大学、専門学校に通わせました。日本の大学で学びアジアの祖国に戻った学生さんの数は800名以上におよびます。
 戦後70年経ったのでもう一度、財団創設者、加藤先生の「償いの業」の動機と理念を学んでみます。任地のインドネシア、アンボン、サパロア島でマラリアの病気にかかった時、現地の人達が介護をしてくれました。加藤牧師は真剣に祈りました。「神様、もし加藤がこの死の病床から再び立ち上がることができましたら、このサパルアの人々の愛に報いるために、私の残る生涯をインドネシアの人々のためにささげます。この重い病気をいやし、神様の器としてお用い下さい。」
 それから、戦争の中で生命を授かった母と子供に対して「戦争によって失った者に思いを馳せる人は多い。しかし戦争によって生命を授かったものに思いをめぐらす人は少ない。人々は被害者として訴えつづけ、加害者として省みることがすくなかった。」また、アジアから来た留学生に対しては次の3つの理念を良くしていました。「加藤の精神」とも呼ばれています。 「1、人間はみな兄弟である。2、指導者になろうと思う人は、まず仕える人にならなければならない。3、自分の民族と国家の正しい繁栄と進歩発展のためには、最大限度の犠牲と奉仕をささげ、自分のためには感謝して最小限度の生活をしなければならない。」加藤先生が述べたこの理念は今日のアジアのリーダーにとって、とても大事なものです。戦後70年が過ぎると、日本、韓国、中国、アセアン諸国、どこの国も経済発展が進み豊かになりつつあります。加藤先生のこの理念がアジアの祖国に戻って行った留学生の心にとどまり、自分達の置かれた場所で、それぞれの人が活躍できるよう祈っています。 
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第98号 「創立50周年を迎えて」

理事長 大野克美

  東南アジア文化友好協会が創立50周年を迎えることが出来ました。創設者の加藤亮一牧師は平成3年の12月に亡くなりました。先生が亡くなられてから、今年で23年が経ちました。昨年は、政府より、公益法人の資格が取得でき感謝しております。今までの50年間の「償いの業」の活動がどう守られて来たかを見てみます。
創設者の加藤牧師が東南アジア文化友好協会の仕事をなぜ始めたかは、先生の「今は、つぐないの時」の著書の中に見られます。「戦争によって生命を失った者に思いを馳せる人は多い。しかし戦争によって生命を授かったものに思いを巡らす人は少ない。人々は被害者として訴えつづけ、加害者として省みることが少なかった。つぐないのあかしをたてよう」加藤牧師は2次大戦中、インドネシアのアンボン島に軍部より派遣され、現地の人達と生活を共にします。そこで戦争の悲惨な体験をします。戦時中、日本兵とインドネシア現地の夫人との間に生まれた子供たちが数多くいます。このような子供達の他、戦争にまきこまれ、両親を失った子供も多くいます。加藤牧師はこのような子供たちを日本に呼んで、彼らに教育を受けさせ、彼らを祖国に戻すという願いを持っていました。
このような「償いの業」の願いが実現に向かいました。昭和35年より賠償留学生の面倒を見ることから始まり、昭和38年に募金が始まり、38年に留学生寮が完成しました。加藤牧師は自らが寮長となり、自分では朝のトイレ掃除から始め、アジアの留学生に人に仕える模範を示しました。このような時期に、私は加藤先生にお会いできました。先生がアジアの留学生に教えたかったことは次の3つの基本精神です。

1、 人間はみな兄弟である。
2、 指導者になろうと思うものは、先ず仕える人にならなければならない。
3、 自分の民族と国家の正しい繁栄と進歩発展のためには、最大限度の犠牲と奉仕をささげ、自分のためには感謝して最少限度の生活をしなければならない。

この文章を見ると、現在の、アジアのリーダーになる人には、50年経った今でもとても大切な教えです。加藤牧師の後を引き継いだ2代目、小山理事長はアジアの国と人達に対する財団の心得として次のように語っていました。「一番良いものを持って仕えよう。中途半端でなく本物で、今出来る一番良いことで、大きな事でなくてよい。お返しの出来る人のためでなく、お返しの出来ない人のために、小さなことに全力を尽くそう」
現在、東南アジア文化友好協会を通して、インドネシア、フィリッピン、マレーシア、シンガポール、タイ、ベトナム、ラオス、カンボジャ、バングラデシュ、中国、韓国の留学生は800名以上になります。祖国に戻った留学生達と共に「アジアのひとづくり」に励んでいきたいと思います。
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第97号 「祖国へ帰った留学生」

理事長 大野克美

 東南アジア文化友好協会とアジアの国で一番関係が深い国はインドネシアです。その理由は財団の創設者である加藤亮一牧師が第二次世界大戦で、インドネシアのアンボン島で過ごし、悲惨な戦争体験し、祖国日本に戻ったことにあります。帰国後、加藤牧師は「償いの業」の活動を開始しました。このアンボン島から財団の歴史が始まりました。加藤牧師は、日本兵を父に持ち、現地の夫人との間に生まれた子供達を日本に引き取り、大学、専門学校に通わせました。その子供達は日本で学び、自分達の祖国に戻って行きました。特に、インドネシアから来た留学生は多く400名以上にのぼります。東南アジア文化友好協会の活動は50年が過ぎましたが、今回は、祖国インドネシアに帰った留学生を紹介したいと思います。 彼女はティモール島の出身です。現在、東ティモールがインドネシアより独立していますが、彼女はティモール島の西に位置するクパン出身です。彼女は、地元の王族関係に生まれ、40年以上前に日本に留学にやってきました。当時の日本の大学では、全共闘運動が盛んな時でした。彼女は日本で装飾の勉強をして、その後インドネシアに戻りました。当時のインドネシアはまだ産業が発展しておらず、なかなか自分に合った職業を探すことが大変でした。その後、日系企業が インドネシアに進出して、彼女は日本と現地企業の合併の銀行に勤めることになりました。

日本で学んだ留学生達の状況を少し述べますと、当時のインドネシアでは、まだ基礎的な産業のインフラが進んでいないため、科学、電気など、工学系統の学問を学んだ学生達は祖国に戻っても、自分の学んだことがすぐ役立たないというジレンマがあったようです。彼女は銀行に勤めながら、現在のご主人である医者と結婚し、3人の子供を持つことができました。財団創設者である、加藤亮一牧師は祖国に帰った留学生がどうなっているか、いつも気に留め、ときどきインドネシアにいって彼らを励ましていました。彼女は最近、生まれ故郷であるティモール島のクパンに戻りました。医者であるご主人と共にクパンの地域医療に専念するためだそうです。ご主人は首都ジャカルタの著名な医科大学の教授をしていた方です。3人の子供達もクパンに戻り両親たちの助けをする予定と聞いています。長女さんはオランダで医学を勉強してその後ドイツ人の医者と結婚したそうです。ご主人と共に、ドイツからクパンに移る予定です。

加藤亮一牧師が日本に学びに来る留学生に「自分の生活は質素に、自分の祖国に対する奉仕は最大に」と語っていました。東南アジア文化友好協会の活動が50年経ち、加藤亮一牧師が亡くなってから14年経ちますが、日本で学んだ留学生達一人ひとりが「加藤牧師の精神」をもって花開くことを願っています。
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第96号 「戦争体験世代から次世代リーダーへのバトンタッチ」

理事長 大野克美

 第二次世界大戦が終わり、今年で68年が過ぎ去ろうとしています。東南アジア文化友好協会が、加藤亮一牧師によって設立され、50年が経ちました。加藤先生は牧師でありながら戦争に参加して、戦争の「残虐性」「非人間性」などを体験しました。祖国の日本に戻り、「償いの業を」開始してきました。東南アジア文化友好協会は昨年、公益財団法人の資格を得て、また新たな出発が始まっています。今まで財団を支えてくださった人達の尊い労苦があったから、今日まで存続できたと思っています。

私がまだ学生の時、財団の事務所を訪ねると、かなり年配と思える方たちが働いていました。皆戦争体験を持った方々でした。普段はあまり戦争の体験を話されないのですが、親しくなると戦争体験を語ってくださいました。昔の心の痛む体験話は話したくなかったようです。日本ではあまり語られないですが、インドネシアのボルネオ島のポンティアナク事件に対して、大変心を痛めたT氏は、被害に会われた関係者の子息を財団に迎え、日本の会社で技術を学ばせ、祖国に帰させました。また、S氏はインドネシアの体験を話してくださり「アンボン島では悲惨な体験をした、加藤牧師のおかげで、祖国日本に戻れた人は多くいる。先生のお役にたちたい」と語っていました。この他にも多くの方によって財団は支えられてきました。現在、まだ財団を支えてくださっている方々はすでに90歳を超える人もいますが、多くの人はこの世をすでに去っています。戦争体験の話を数多くの人から聞きました。この方々に、最後の質問ですが「次の若い世代の人達に伝えたいことは何ですか?」と聞くとほとんどの人は「あのような悲惨な戦争は、二度と起こしてはならないし、どのように平和を作り出せるかよく勉強してください」とのことでした。

今日、日本が平和で経済的にも繁栄できたのは、悲惨な戦争の後にも、くじけず、明日を夢見て、苦労に耐え頑張ってくださった先輩たちのおかげです。戦後に生まれ、戦争体験のない世代の人達は、悲惨な戦争体験をした先輩たちの犠牲と、平和の配当の中で生きていることになります。今後の東南アジア文化友好協会の活動は、アジアの次世代を担う青年たちとの交流に力を注いでいきます。加藤牧師が最も大事にした精神、自分の国を大切にし、自分以外の国の人々にも仕えていく精神をもつリーダーを育てる。こんなリーダーがアジアの各地に育ってほしいと願っています。
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第95号 「多様性の統一」

理事長 大野克美

 東南アジア文化友好協会は加藤亮一先生が「償いの業」の活動を始めてから、今年で50年になります。
この中で一番留学生の数が多いのが、400名以上のインドネシアからの留学生さんです。初めて私がインドネシアの地を訪れたのは、1970年(昭和45年)大阪万博の年でした。43年前のことになります。当時のインドネシアは石油、ガス、鉱物資源には恵まれた国ですが、工業の分野では未発達でした。このため、当時日本で電子工学など学んだ学生さんたちは、祖国に帰っても、学んだ勉強が役に立つ職業に就けなかったものでした。当時の日本円1円は1ルピア(現地通貨)で、現在は1円が100ルピアです。ずいぶん通貨の価値が変わったものです。祖国に帰った留学生さんを訪問する機会があり、仕事の現場など見せていただくことがあるのですが、ビックリすることがあります。すでに会社を設立し、経営に携わっている人の事務所など訪問すると、とても参考になります。電話が机の上にいくつか置かれているのですが、1つの電話が鳴ると、流暢な英語で技術的なことをアメリカと話しているようです。2つの電話が鳴ると、今度はお金のことで、中国語で国外の方と話しているようです。3つの電話が鳴ると、雇用に関することで、マレー語、インドネシア語で話しているようです。通訳を入れないで、自分一人で、すべて出来るのです。これに加えて日本語も駆使するのですから、かなり多様性の中での仕事が多いようです。インドネシアの経済成長は元留学生などに聞くと、ここ4〜5年はかなり良いようです。

 最近はアジアの新興国などの特集がテレビなどのメディアで取り扱われるようになってきました。成長の元気の秘密などが話されています。成長の一つの要素として、インドネシアでは人々の多様性をうまく取り入れている気がします。「多様性の統一」(Unity of diversity ユニティ・オブ・ダイバーシティ)、この言葉はインドネシアの他、アジアの多民族国家の人達がとても大事にする概念です。オーケストラの演奏を見ると、演奏する各メンバーはそれぞれの違った音色を出しますが、指揮者の下に素晴らしいハーモニーの音を出します。そして観客に感動を与えてくれます。
これからの時代には国家も、企業も、いろんな組織もオーケストラ型に運営され、それぞれ違った個性を大事にし、個性の力を引出し、お互いに成長していくことが大事に思えます。財団の創設者加藤亮一牧師は、アジアから来る留学生に対して「自分と違った考えの人達を大事にしてください。違った人を受け入れる訓練をしてください。そこにあなたの愛があるのですよ」と語っていました。
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第94号 「アジア最大の親日国家 インドネシア」

理事長 大野克美

 当財団、東南アジア文化友好協会の歴史を見ると、インドネシアとの関係がとても深いことになります。 理由は財団の創設者加藤亮一先生が第2次世界大戦でインドネシアのアンボン島(地図では東ティモールの北方、 歴史では東インド会社のあった所)で過ごしたことにあります。悲惨な戦争を自らも体験し、日本に戻りました。 帰国した後、牧師でもあったため、自ら「償いの業」の良心運動を開始し、日本人を父とする、戦争混血児を日本に 迎え、彼らを大学などで勉強させ、彼らの祖国に戻しました。

 当財団の関係した留学生では700名以上が祖国インドネシアに戻っています(財団の今までの働きはホームページ でも見られます)。日本とインドネシアはなぜ関係が良いのかよく尋ねられます。私も加藤先生とよくアジアの国、 韓国、中国、フィリピン、台湾、シンガポール、インドネシアなどを訪れました。現地に行くと牧師でもある先生は 「アジアの人達には大変迷惑をかけました。どうかお許しください!」と語ってこられました。現地の国々によって 反応が違ったように思えました。韓国での反応は「日本の方々が来て、謝ってくれるのですが、言葉に心がこもって いないように思えるのです。」中国に行くと「皆さんの責任ではなく、当時の軍国主義のリーダーに責任があります。 でも私たちは決して忘れることは出来ません。」インドネシアにいくと「戦争は過去のことです。あれこれ言っても 始まりません。日本の兵隊さんが、オランダ植民地からの独立を助けてくれ、インドネシアでは、新しい国造りを始 めています。日本の素晴らしい技術でインドネシア国民が豊かになれるよう技術援助などに力を入れてください」こ んな反応のように思えました。インドネシアに行くと、韓国、中国にはない「英雄墓地」に日本の兵隊さんが祭られ ています。あまり知られていないのですが、インドネシア政府から、日本でいえば勲一等などの叙勲を受けている方々 が多くいます。現在のインドネシアの指導者の中にはオランダからの独立のため、日本の軍隊から多くの訓練を受けた 人達がいます。歴史的背景がインドネシアと韓国、中国では違っています。現在のインドネシアの人口は日本の2倍 以上の2億3900万人と言われています。日本では若い人でも英語、中国語を話す人はいるのですが、インドネシア 語を話せる若い人はまだ少ないように思えます。インドネシアに興味を持ってくれる若い世代が育っていくように願っ ています。インドネシアでは日本の軍人さんがオランダからの独立のため、命を懸けて、共に戦ってくれたという思い があります。財団の卒寮生さんと共に、さらなる交流が前進するよう交流プログラムを作っていこうと思っております。
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第93号 「あなたの若き日に、アジアの国をよく見ておきなさい」

理事長 大野克美

 私が初めて海外に出た時は大学3年生の時、大阪万博の時でした。今から42年前の時です。私はいわゆる団塊世代の生まれで、大学時代は全共闘時代と言われ学生運動も激しかった時でした。海外に出た理由は当財団の創設者である加藤亮一牧師の指導でした。加藤先生は牧師であり、兵隊としてよりも、むしろ牧師的役割で、インドネシアに派遣された。アンボンという小さな島で、当時はオランダがこの島を統治していました。歴史で学んだ東インド会社のアジア拠点になっていた島です。「戦争というものは力で勝利しても、その後の、統治の方がはるかに困難をともなう」と言われています。加藤先生は戦争の悲惨な体験をしました。戦争が終わり、日本に戻り、「償いの業」の活動を始められました。

教会に通っていた青年たちに「これからはアジアと日本の関係が重要になる。ぜひアジアの国を見て来て下さい」とのことでした。教会の中にアジアの学生さん達の寮もあり、友達もすでにいました。インドネシアからの留学生が多かった。「彼らの国はどんな国なのだろうか」にも興味がありました。7名の青年がアジアの国の視察に参加した。アジアとの貿易を行っていた海運会社の船に同行させてもらいました。行先は香港、マレーシア、シンガポール、インドネシアのボルネオ島のサマリンダ、バリクパパン、ジャワ島のジャカルタ、スラバヤ、沖縄と周り、日本に戻った。約2カ月間の旅でした。私達若者にとっては、「見る物、聞く外国の言葉、食べ物」すべてが新鮮であり、感動的でした。青年達にとって、まだ心の柔らかな時、外国を見ておくことは大事なことです。

アメリカ、ヨーロッパなど、比較的豊かな国を見るのもよいが、特にアジア、インド、アフリカなど今まで貧しいと言われていた国もよく見ておく必要があります。将来、行った先の国の人達と友達になるような機会が与えられるととてもよい機会となります。加藤牧師はとてもインドネシアの言葉がうまく通訳もなさっていました。インドネシアのことはよく話してくださったので良く理解もできました。

最近は日本の人もインドネシアに関心が向いているようです。「アジアの中で、一番親日的な国」といわれています。その理由は紙面が限られているので今は書きません。当財団とインドネシアの関係は加藤先生を通して歴史的に深く、財団を通して祖国に帰った留学生は800名以上に上ります。今では、 元留学生の子供達が日本に来るようになりました。日本からも16年以上学生さん達をインドネシアに送り交流をさせています。加藤牧師の残した言葉「アジアの人に学び、アジアの人に仕え、アジアの人達と共に生きる」この言葉の実践がとても大事な時代になってきたように最近は思えます。
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第92号 「愛するということ、それは人の心の痛み分かることです」

理事長 大野克美

 今年もあと1ヶ月で1年が過ぎようとしています。3月11日には、東日本大震災が発生し、これから冬を迎えようとしております。当財団の寮に住んでいる東南アジアからの留学生たちも初めての経験だったと思います。中には数年前に起きたスマトラ沖地震で苦しんできたインドネシアの留学生もいます。
この時、日本からの援助のために国会議員さん他、ボランティアの人達が現地に行きました。実際現地で何が不足し、どのようなものが優先的に大事であるかは日本ではよく分からないことがあります。このような時に、日本留学の経験がある元留学生達が適切なアドバイスなどしてくれて大変助かったとボランティア関係の方々から感謝されました。
 今回の大震災は日本の人達に対して大変厳しい試練を与えています。私たち財団は40年以上アジアからの留学生のお世話をしてまいりました。アジアからの留学生が今回の大震災を通して多くのものを学んで欲しいと思います。特に最近は東南アジアで、多くの災害も発生しております。現在、タイの人達が大洪水で苦しんでいます。バングラディシュ、インドネシアでも同じような問題を抱えています。留学生は個人的にはエリートの人が多く、毎日自分の専門の勉強をしていますが、彼らが自分の祖国に帰った時、今回の経験をよく学んで、それを生かして欲しいと願っています。財団の創設者である加藤亮一牧師は説教の中で聖書を引用して留学生達にもよく語っていました。
  「キリストは私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。子供たちよ、私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか」  私も学生の時からこの説教をよく聞きました。留学生が彼らの祖国に戻ってリーダーになった時、このような心をもって欲しいと願ったのです。財団の寮では留学生達がお互いに共同生活をしています。日本流に言えば、「同じ釜の飯を喰う」ことになります。トラブル、衝突もありますが、留学生が祖国に帰る時には友情が芽生えているでしょう。地球は狭くなり、いろんな問題が発生しますが、日本で築いたお互いの友情がアジアで発生する諸問題の解決になるよう願っております。
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第91号 「大震災から学ぶ」

理事長 大野克美

 今回の東日本大震災によりお亡くなりになった方、被災に会って苦しんでいる方々に謹んで、お見舞いを申し上げます。震災後もうすでに3カ月以上が過ぎ去りました。

当財団の久米川寮で暮らしている、アジアからの留学生もだいぶ落ち着いてきたようです。地震のあまりない国から来た留学生、また数年前にインドネシアで起きたスマトラ沖地震の経験者もおり、彼らもこれからの日本での生活をどうしていくか考えているようです。スマトラ地震は夜中、寝ている時に起きたため、25万人もの方々が亡くなりました。今回の地震も大きかったのですが、夜中での地震でなくて不幸中の幸いであったと言う人もいます。この歴史的大震災を受けて、これからの生き方を真剣に考えてきている人が増えています。私自身、ふだん気づかない、いろいろなことを学ばせていただきました。 第一に「私たちは生きているのではなく、生かされている」このことを学ばせていただきました。私たちは、常に、自分のビジョン、自分の目標、自分の健康など、すべて「自分が中心」にいるわけです。今回のような大震災を受け、自分がまだ生きていることを知る時、私は生きているのではなく、「生かされている」ことを学びました。自分の無力と、自然に対する謙遜の心も学ばせていただきました。 第二に真の豊かさとは何かということです。留学生さん、日本の学生さんと話す時がよくあります。「皆さんは徳川時代の将軍様より良い生活をしていますよ」と話すと「本当ですか」と答えが返ってきます。将軍様でも当時は、皆さんのように、中華料理、フランス料理、イタリア料理は食べられませんよ。冷蔵庫にある冷たいビール、これも飲めません。暑くても、クーラーは使用できません。車も使用できません。「皆さんの生活は将軍様以上ですよ」と言います。確かに豊かさも大事ですが、豊かさに慣れきってしまっている、ここにも問題があるようです。これに対して、普段はあまり気にしてないが、目に見えないもの、大事な財産に目を向ける必要があることを学ばされました。たとえば、家族愛、夫婦愛、それと両親、友人に対する感謝の言葉の重要さに気づかされました。普段は夫婦げんかをしたり、頭にきて友人に暴言を吐くことなどよくあります。でも今度の大震災を通して亡くなってしまった人のことを考えると、もう友人や、奥さんや、だんなさんと喧嘩さえもできない人も多くいます。喧嘩があっても相手がいて「喧嘩が出来る幸せ」を考えると、相手に対して多少のことは我慢できようになります。震災はこんなことも愚かな私に教えてくれました。
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第90号 「平和をつくる人は、隣人を愛する人」

理事長 大野克美

毎年この時期になると町並みはクリスマスの季節となる。クリスマスというとビジネスのことで頭がいっぱいになる人も多いと思うが、このような時期、クリスマスに伴い平和のことも考えてみたい。東南アジア文化友好協会の創設者、加藤亮一牧師は最も平和を願った人である。自分が牧師でありながら戦争に参加し、インドネシアのアンボン島で島民と共に過ごした。戦争が終わり、日本に戻り「償いの業」を開始した。日本兵とインドネシア、フィリピン等、日本兵と現地の婦人との間に子供が生まれ、その残された子供達を日本に迎えた。あるいは、 戦争の悲劇に巻き込まれ両親を失った子供達を迎えたわけである。私がまだ大学生の時、教会の門を訪ね、加藤牧師と初めてお会いした。教会の敷地内には東南アジア学生寮があり、インドネシア、フィリピン、シンガポールなどから来た学生さん達が生活していた。加藤先生は自らが寮長になり、直接留学生たちに生活指導をした人である。20名の国籍が違う若い男女が共に寮生活をしていた。寮生活で学ぶ基本精神は次のものである。

1、 人間はみな兄弟である。
2、 誰でもリーダーとなろうと思う者は、人に仕える者でなければならない。
3、 自分の生活は質素であっても、自分の祖国に仕える精神は最高のものでなければならない。

 この標語は加藤牧師が自ら考え、アジアからの留学生に期待した人物像である。先生は知的な勉強と共に人間教育にも力を注いだ。アジアのリーダーとなる人には平和をつくる人になってもらいたい願いがあったからである。留学生達が自らの生活を通して人格を磨き、他国の仲間と仲良くなれる人になってもらいたいからである。特に、生活態度の中で重視したのはトラブルが起きた時の対処であった。毎日同じ寮で生活しているわけだから当然トラブルも発生する。国と言語が違うと問題もさらに複雑になる。せっかく日本に来て勉強しているのだから日本のよい文化も留学生に学んで欲しいとの願いがあった。日本の人は世界の人達と比べて、控えめで、問題が起きると「すみません。私が悪かったもしれない。許してください」といえる。アジアの留学生はこれがなかなか言えないそうである。普通の人よりプライドが高くエリートの人達が多いからである。加藤牧師は「相手がすみませんと言って来た時は、許す勇気を持ってください」とよく語り、学生達に「平和を愛することは出来ても、あなたの隣人を愛することは難しいことですよ」と語っていた。

 財団を通して、インドネシア、シンガポール、マレーシア、フィリピン、タイ、ビルマ、ラオス、中国、韓国等のアジアの祖国に帰った数も800名を越えることになる。この留学生達が隣人を愛し、平和をつくり出す人物になれるよう願うばかりである。
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第89号 「戦争の中での人間性」

理事長 大野克美

 この時期になると毎年、第二次世界大戦の話が持ち上がります。すでに65年の歳月が過ぎ去りましたが、当財団の創設者、加藤亮一先生は「戦争は人間を野獣化する」とよく言っていました。でもこんな厳しい時代の中で生き、戦争後は財団のために一生懸命働いてくださったN理事さんのことを話したいと思います。彼は戦争前にお父さんの関係で幼児期をアメリカで過ごしました。戦争が始まったので日本に戻りました。英語が出来て頭脳明晰のため部隊長の任務のもとに戦争を過ごしました。当時、N理事は日本人の中では珍しく、ユニークな人でした。アメリカで幼児期を過ごしたため、アメリカの力を知っていました。「今回の戦争は勝利できないかもしれない」と感じていました。
 彼の多くの友人もこの戦争で命を落としました。戦争が終わり傷心の身で帰国するわけですが、アメリカ兵と一緒に船で帰国をします。帰国の途中アメリカ兵から「今度アメリカはロシアと戦うことになる。そこで聞いておきたいがその時、お前は私達と一緒にロシアと戦うのだが間違いないな。裏切ることがあるといけないので聞いておく」その時、N理事は少し考えて答えたそうです。なぜなら自分の仲間もかなり死んでいるわけですから、素直に答えたくないわけです。アメリカ兵に向かって「私はロシア側についてアメリカと戦う」これにはアメリカ兵もびっくりしてか、みるみるうちに顔を赤らめカンカンになって怒ったそうです。N理事はすかさず「俺の言い分を聞いてからにしてくれ。私の考えではまずロシア側につく、そしてアメリカ兵が突入して来たらすぐ白旗を上げる。そうすれば私はアメリカの捕虜になるでしょう。そしたら今のように、あなたが私にしてくれているように、とても良い待遇を捕虜として受けられるでしょう。もしこれが反対になって私がロシアの捕虜になってしまったらどうなりますか。考えてみてください」
 この回答にアメリカ兵は怒りがだんだん解けて来て「お前は面白いやつだな」それからは毎晩彼を誘っておいしいものを食べさせてくれたそうです。N隊長の部隊は比較的被害が少なかったそうです。「とにかく生きて日本に戻るのだ。皆頑張れ」と彼は言ったそうです。戦後、N理事と彼が戦争で過ごした島を訪れた時、彼と同じ日本名の子供がいました。周りの人は彼の戦争の落とし子と思った人もいました。地元の夫人がN理事のもとに来て「私はあなたがこの島で過ごした時、あなたの行動をよく見ていました。本当に立派だったのであなたの名前を子供につけさせてもらいました」夫人の顔には涙が光っていたそうです。戦争という極限の中にいながら人間性を失わない人も多くいたそうです。当時の彼の行動が良かったのか。いろんな意見があると思います。
 彼はその後亡くなる前までアジアからの留学生の良き父でした。 
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第88号 「希望は死に打ち勝つ」

理事長 大野克美

 12月になるとクリスマスがやってきます。12月はキリスト教信者にとっては忙しくいろいろな思い出がある月です。12月のこの時期になると、いつも東南アジア文化友好協会の創設者である加藤亮一牧師のことが深く思い出されます。加藤牧師は12月25日に亡くなり、この日が通夜の日となりました。同時にこの25日はクリスマスの日です。クリスマスと通夜が同時に重なっていました。本当に困りました。日本の習慣に従えば25日は当然通夜の日にするべきものでしょう。加藤牧師は大変元気な人でした。12月19日には信徒に洗礼式を授け、この日は少し熱があるようだと病院に入院しました。それから病院で回復を待ちました。12月23日になると急に病状が悪化してきました。24日のクリスマスイブの日には、側近の信徒、親族の人を呼んで、最後に私たちに対する言葉とお祈りをしてから先生は「主にあって、万歳!万歳!」と大きく叫んで床に伏せました。翌日先生は亡くなられました。病院に入院してから25日の亡くなられる日まで6日間でした。病院で苦しんだのは一週間もありませんでした。あっという間の出来事でした。
 神は加藤先生にふさわしい最期の時を備えて下さったと思います。25日のクリスマスには財団は予定どおりクリスマスを行いました。クリスマスに参加した方々の中には、加藤先生が亡くなられたのに「クリスマスの祝会はないだろう」と感じた人もいらっしゃったと思います。加藤先生は自分の死期も感じたのか「もし自分に何かあったとしてもクリスマスは明るく、楽しく主に感謝して行ってください」と語っていました。加藤先生は信仰と希望の人であったので「地上での仕事は充分やってきた、これで主に会える」という望みがあったように思えます。「人が亡くなるということ」このことは、この世の目から見れば大変悲しいことです。でも信仰の偉人加藤亮一から見れば、自分の死を超えた先に平安と喜びを感じたのでしょう。最近は信仰の先輩で「信仰の偉人」が亡くなり、告別式に参加することが増えてきました。人は誰でも地上での最後の生活を閉じる時が来るのです。人がその生涯を終えるとき、もしその人の生涯を一言で表現するとどのように表現されるのでしょうか。その人の生涯は神の目から見てどのように映るのでしょうか。東南アジア文化友好協会の創設者である加藤亮一牧師は「償いの人」でありました。加藤牧師は自分のほとんどの生涯を「アジアの人々に仕え」1991年の12月に81歳の生涯を持って天国に凱旋しました。 
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第87号 「あなたの行くべきカナンの地はどこですか」

理事長 大野克美

 前回までは加藤亮一先生の体験について書かせていただきましたが、今回は家族のこと、特に奥様について少し語らせていただきます。東南アジア文化友好協会の創設者である加藤亮一先生が生まれたのは、九州の久留米市です。加藤先生は久留米商業を卒業して、後にキリストに従うため東京に出て神学を学ぶことになります。加藤先生は若き時、下北沢教会で牧会の仕事のインターンをしていました。この時、加藤先生は北朝鮮の平壌の教会から協力ボランティアで日本に来ていた人で、後の加藤夫人となる朝子女史と出会いました。朝子女史は同志社大学で英文学を学んだ才女でありました。若き二人が出会った時、主任の牧師は朝子さんに向って「あなたが神様の仕事をしたいのなら、この加藤君との結婚を勧めます。この男は将来きっと神様のよき仕事をする男ですよ」朝子さんはこの言葉を信じて加藤先生と結婚したそうです。感情的に加藤先生がよかったとかではないそうです。感情ではなく信仰によって結婚したそうです。奥様も後に加藤先生が「償いの業」によってアジアからの留学生を受け入れ、家族とともに生活するようになった時は大変だったそうです。
 財団の創設期の頃は、まだ援助も少ない時で、食べることにも苦労した時代です。自分の子供達4人とアジアからの留学生10数名と大家族で暮すわけです。教会の信者さんから食べ物をいただいた時も、その食べ物をまず留学生から食べてもらったそうです。自分の子供達には食べ物もまわらなかったこともあったそうです。加藤先生は「神様から与えられた仕事は戦場にいる時と同じである」の考えから、自分の身内のことは後で、すべてに留学生を優先させたそうです。奥さまの朝子さんは平壌で暮していた時は、自分の家に自動車、ピアノ、冷蔵庫もあったそうです。それが加藤先生との結婚後は食べることにも苦労したそうです。
 それでも夫人は喜んで神様の仕事をしました。ただ悩んだのは自分が子どもの頃はなに不自由なく暮らせたのに、自分の子供たちには苦労をかけたことです。神様の仕事を完成するには奥さまの協力なくしては出来なかったことでしょう。男性が大きく大事な仕事を成し遂げる陰には、必ず奥様や女性の協力があるものです。奥さまがいろんな問題に直面する時、神様は「あなたの行くべきカナンの地はどこですか」と問いかけたそうです。信仰によって歩んだ女性の強さを感じます。
 アジアからの留学生も加藤先生ご家族から多くを学んだと思います。東南アジア文化友好協会が今日もアジアの留学生のために働けるのも、加藤先生の力ばかりでなく、奥さまの協力があったからです。一般的にアジアの国は男性が中心になっているように思えますが、女性の働きに男性が感謝を表す習慣が少しずつ増えて欲しいように思えます。 
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第86号 「右の頬を打たれたら、左の頬をも向けなさい」

理事長 大野克美

 東南アジア文化友好協会の創設者である加藤亮一先生はどんな人物であったかのシリーズを今回も続けます。初回の「決断の勇気」前回の「仕えるリーダーシップ」に続き、今回は「右の頬を打たれたら、左の頬をも向けなさい」についてである。この言葉は聖書の中に出てくる有名な言葉である。加藤先生は生前多くの講演を行ってきたが「私の最も尊敬する人物はインドの聖人ガンジーと日本の賀川豊彦先生です」と語ってきた。晩年はアメリカのキング牧師のこともよく語っていた。これらの人物は非暴力の巨頭にたつ人物である。聖書のこの言葉は有名であるが、これを実践するのは非常に難しいことである。こんなことは人間的には出来ないことである。出来るのは信仰のある人、非暴力の固い信念を持つ人達であろう。加藤先生には私と同世代である、団塊世代の息子さんがいる。私が若い頃はいわゆる全共闘時代といわれ、学生運動がとても盛んであった。多くの学生がそうであったが、社会正義とは何か、国家のなすべきこととは何かなど真剣に考えた時代である。加藤先生には息子さんがいて、神学校の生徒であった。全共闘時代の真っ最中でもあったので、息子さんの純粋な正義感と牧師としての父親との哲学の違いで、意見がかなり合わなかった時代があった。息子さんの過激な学生運動のため、彼は警察から目をつけられ、留置所に行く事になった。警察から父親で牧師である加藤先生に相談があった。この時、加藤先生は「私は牧師である、教会員に対して、非暴力について話をしてきた。私の息子であっても暴力に対しては論外である。すぐ捕まえてくれ」と語った。それから息子さんは留置所暮しに入りしばらくしてから出てきた。その後父親と息子が顔を合わせた。息子は父親に対して言った。「父親らしいこともしないで、俺をぶちこんでくれと言ったそうだな。」彼はいきなり父親の頬をぶんなぐった。このとき加藤先生は左の頬を息子に向けた。その後息子は無言のまま、その場所を去った。彼はその後紆余曲折があったが、20年後父親の仕事を手伝うようになった。
 加藤先生は1991年に亡くなられた。81歳の生涯であった。先生は戦争を通して、東南アジアの人達に対する「償いの業」に生涯を奉げた人であった。先生の死後、遺言の通り先生の遺骨をインドネシアの3つの場所、アンボン、ジャカルタ、スラウェシ島のメナドに分骨することになった。先生にとって最も関係があった思い出の場所である。私たちは分骨のため、飛行機でアンボン島に向かった。息子さんは父親の遺骨と供に飛行機に乗った。ひざの上に父親の遺骨を抱え、窓側の席でしばらく涙ぐみ私に語った。「俺はいろんなことをしてきたが、今最も尊敬している人物は人間加藤亮一だよ。偉い人だよ。でも父親としての加藤亮一はどうかな。」印象的な言葉であった。現在加藤先生も息子さんもともに亡くなられている。 
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第85号 「謙遜と仕えるリーダーシップ」

理事長 大野克美

前回、東南アジア文化友好協会の創設者加藤亮一先生の人柄について述べた。第一回は決断の勇気であった。第二回は、謙遜と仕えるリーダーシップについてである。加藤先生は、戦争が終わりインドネシアから日本に戻り「償いの業」を始められた。先生は池袋教会の牧師でもあった。教会の敷地の中に東南アジア学生寮が併設されていた。戦争の混血児の学生が多く常に20名位のインドネシアからの学生がいた。彼らのお父さんは日本人である。インドネシアは独立後あまり経っていなく、まだ今のように工業など発展していない。釘一本さえ輸入しなければならない時代である。留学生も日本で勉強し祖国に帰り国の発展につくそうと希望に燃えていた。日本人の血を持っているためプライドも高い。インドネシアではそれなりの生活ができた人も多い。加藤先生は留学生達が祖国でよきリーダーになって欲しいと願っていた。よきリーダーであるための条件はもちろん勉学で優れていることは重要である。学校でしっかり学んで欲しい、同時に優れた人格者であって欲しい、そう願っていた。
リーダーの条件は力強さ、決断力、先見力などは大事であるが、それと同時に謙遜、思いやりも重視した。このため先生は彼ら留学生に見本を示さなければならなかった。先生は毎日誰よりも早く起きてトイレの清掃を自ら始められた。冬の時どんなに寒くてもトイレ掃除をなさった。インドネシアではトイレ掃除などは身分が低い人がするのが普通である。これを見ていた学生などは最初たまげたようである。「加藤先生、トイレ掃除は私たちがします。先生は休んでいてください。」それからアジア学生寮ではトイレ掃除は順番制になったようである。私も学生のころアジア学生寮をよく訪ねたが先生がトイレ掃除をしている姿をよく見た。加藤先生はその他、どんなに自分より年の若い人でも必ず○○さんとさんづけで呼んでいた。年の若い人に○○君と呼んでいたことは聞いたことがない。
現代の中でリーダーとなる人は大変である。国、民族、宗教、言語など違えばおのずと価値観も違ってくる。人が人に従うことは難しいことである。力とか権力によらないリーダーシップとはどんなものなのだろうか。アジアの国に帰った留学生たちはリーダーと呼ばれる地位についている人も出始めている。リーダーの品格が国際的にも求められる時代に入っている。日本にいるとき加藤先生から学んだ、謙遜と他の人に仕えていくリーダーシップを留学生たちが発揮できるよう願っている。このため東南アジア文化友好協会もアジア祖国に帰っていった彼らを励まし祈っていかなければならないだろう。  
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第84号 「決断の勇気」

理事長 大野克美

 今回から東南アジア文化友好協会の創設者である加藤亮一牧師からの学びを連載します。加藤亮一牧師は明治43年生まれで、九州の出身、久留米商業を経て牧師となっております。平成3年のクリスマスの日に天に凱旋しております。81年間の生涯を神様の守りの中で過ごしたことになります。加藤牧師の生涯の働きを見ると、ほとんどの働きは「償いの業」に費やされました。加藤牧師の人生の中で大きな転機は、第2次世界大戦中に、軍部からインドネシアに牧師として派遣されたことにあります。最近ではアメリカ、ヨーロッパの人達が大変興味を持っています。
 「日本の軍部が兵士を戦場に送るのは理解できるが、キリスト教国でもない日本が牧師を戦場に送るのは理解できない」と尋ねる方が多くいます。加藤牧師はインドネシアのアンボン島に派遣されました。アンボン島は地図で見るとジャワ島とニューギニアの中間で東ティモールの上に位置します。当時のアンボン島はオランダに支配されていました。アンボン島はとても良い港を持ち、貿易の中心地でもありました。この周りのマルク諸島から胡椒などの香料を集めヨーロッパに輸出をしていました。インドネシアはイスラム教が90パーセント以上を占めますが、アンボン島と隣接するサバルア島は大変キリスト教色が強い島です。アンボンの現地の人達は黒いオランダ人とも呼ばれていました。加藤牧師は現地の人たちと新生道場という聖書の学びの学校を開きました。インドネシアがのちにオランダから独立することになりますが、後のインドネシア独立後の国を支える指導者もこの新生道場から影響を受けた人たちが出てきます。
 戦争という非人間性が最も強く出る中で、心を痛める事件が発生します。日本も敗戦の色が濃くなってきたとき、軍部は当時外国から来ていた慰安婦を返してしまいました。その代り、誰の考えかわかりませんが、現地の娘さんを拉致して慰安婦にすると言う案が出てきました。軍部の人は加藤牧師に向かって「先生、今は戦争なので非常事態ですよ。良いとか悪いとか言っている場合ではないですよ。命令に従わないなら例え牧師であろうと処分しますよ」と脅しをかけるわけです。この案は誰にも知られたくないので真夜中に実行となりました。加藤牧師はあわてて拉致の現場に向かい実行部隊のY軍曹の前に立ちはだかり「この娘さんを連れて行くなら、まず私を殺してから行け、人間として私は許さない」と気迫のこもった大声で叫んだためY軍曹も引き下がったそうです。戦争は人間を野獣化させるものです。人間が非常時に立った時このような態度が取れるものでしょうか。
 現在の平和の時代に暮らす私たちはこのような非常時の場面に接することは少ないかもしれません。リーダーの品格はどこの国でも問題となっています。非常時における決断の勇気に学びたいものです。
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